ラムサール条約の発展と今後の展望
1. ラムサール条約の誕生と地球環境問題
1971年、イランの町ラムサールで誕生した湿地条約は25年目を迎え新たな展開をしようとしている。国境を越えて季節的な渡りを行う水鳥を保護するためには、複数の国家間の協力が必要である。この当然の発想を基に、世界で初めて自然保護のための国際条約が誕生した。誕生後25年たった今でも、特定の生態系の保全を目的とした唯一の国際条約である。生態系、または生息地の保護は、特定の種の保護に比べると関心を高めるのが難しいため、容易ではない。これは先進国であっても、途上国であっても事態は同じである。
湿地にとっての血液とも言える「水」は上流域から流れてくる。上流にある山、そしてそこにある森が水の供給量を調節する機能を保つことは、健全な湿地の維持に不可欠である。湿地の保全には集水域の管理を視野に入れなければならない。また、湿地を通っていわばフィルターにかけられた「水」はさまざまな形で人間に利用され、やがては沿岸地域の湿地にたどり着き、そこから海へと流れ込む。海の保全には上流の湿地の保全が必要と
されるわけである。こうして湿地の保全状況を把握することによって、集水域全体の健康状態の判断、そして海域の保全を同時に考慮することができる。
2. 締約国会議と会犠決定
1993年6月、釧路市で開催された第5回締約国会議によってラムサール条約の知名度も上がり、湿地という生態系の保全のためには多くの入々の英知を結集しなければならないことが確認された。また、釧路会議はアジア最初の締約国会議であり、この会議を契機にさまざまな湿地保全活動がアジア各国で引き続いて行われている。そして、釧路会議ではまた、水鳥と狭義の湿地保全にとどまらず、その対象を広げる努力が求められた。また、ワイズユース(賢明な利用)の概念が、人間社会のさまざまな活動を含めた総合的な保全のあり方であることも報告された。
96年3月、オーストラリアで開催された締約国会議では魚類資源を含めた保全が提唱され、地域社会参加型の保全やや管理計画策定が奨励された。具体的な活動の提案内容が125項日にも及ぶ「1997年から2002年までのラムサール条約戦略計画」も採択された。
ラムサール条約の最初の締約国会議は1980年になって行われた。参加者は100名に満たず、採択された勧告も11のみであった。第2回会議では採択されたのは勧告が9つのみと減っている。それが、条約の改正案が採択されたカナダのレジャイナでの会議で、初めて決議という名称が使われ、決議4、勧告'10が採択された。ここでの改正案によって、条約事務局の設立、加盟国の拠出金設定が決定された。スイスのモントルーで行われた第4回締約国会議では、決議5、勧告14が採択され、93年の釧路会議では決議9、勧告15が採択されている。これらの数はブリスベン会議では大きく増え、決議23と勧告18、合わせて41が採択されている。
3. 次回締約国会議までの課題
次回締約国会議は1999年、中米コスタリカで開催予定であり、これが途上国における最初の締約国会議となる。コスタリカ政府が会議を開催することへの協力も必要だが、途上国が抱える湿地保全上の問題解決のための協力体制の強化が焦点となるだろう。
途上国における湿地保全を視野に人れると、今後は住民参加の推進、国レベルそして地方レベルでの人的交流、そして失われた湿地やその機能の復元が大きなテーマとなってくるだろう。
(1)地域住民参加による湿地管理の推進
ブリスベンで採択された勧告3は、具体的な個々の湿地の保全や管理計画の策定のためには地域住民の参加が不可欠であるとして、そのためのメカニズム作りの奨励を行っている。具体的な指針を作るためにIUCN(国際自然保護連合)とWWFが中心となって世界中から住民参加による湿地管理の研究例を集めようという計画がある。
(2)研修
単にtrainingと呼ばれることもあるが、capacity buildingとして先進国から途上国への援助、最近では地方やNGOレベルでの交流を踏まえた広範開の活動が進められている。
(3)湿地の復元
実際的には多額の費用を必要とするが、まず先進国がそのための技術を検討することが必要である。途上国に現在残されている湿地をまず保全することが重要であるというメッセージを伝え、さもなくばその代償は高くつくことを示すことにもなる。また、自然環境に留意した砂防技術の開発、途上国への技術移転とかも日本としてはこの中に含めて考えていくべきではないか。
4. 今後の展望
現在、環境保全のために多くの国際条約が締結されている。「生物多様性条約」「気候変動枠組条約」「砂漠化防止条約」「ワシントン条約」等である。そんな中で、ラムサール?湿地だって?何をどうすればいいんだ?というのが多くの途上国における担当者の声だろう。ひとつには、いくつかの国際環境条約を扱うには、限られた人的資源や予算の中でどうすれば効果的にできるかという包括的なアプローチが必要とされてくるだろう。また、他方でラムサール条約の抱えている大きな問題として、「湿地」という言葉自体がまだまだ一一般的に知られていないことがある。
湿地条約を産み出すために、水鳥科学者、狩猟家、一部の政治家や法律家がヨーロッパで何回か研究会を開いてその骨子を練っていたが、国際条約が誕生するためには各国の政府がその意義を認めなければならない。しかし、政府の中で話しを進めてもらおうにも、湿地という言葉自体知っている人が少ない状態であった。そのため、ヨーロッパで国際NGOが中心となって大々的なキャンべ一ンを行う必要があった,,
こうしてラムサール条約はどうにか1971年に誕生したものの、ヨーロッパ以外での関心はいまひとつで、条約の成長も当初はゆるやかなものであった。1990年、ラムサール事務局のあるスイスで第4回締約国会議が行われた際も、会議規模もまだそれほど大きくなく、新聞報道もおとなしいものであった。
釧路会議の成功により日本国内のみにとどまらず、アジアそして世界的にも、ラムサールここにあり、という評価ができた。これはまぎれもなく、会議を主催した日本政府と北海道、関係市町村の努力による大きな貢献である。しかし、湿地への関心が高まるに連れてわかってきたのは、湿地のおかれている悲惨な状況だ.
ラムサール条約加盟国は1996年11月にイスラエルとマラウィが加盟し96ヵ国となり、登録湿地の数も900になろうとしている。加盟国数が100ヵ国となり、登録湿地が1000を超えるのも時間の問題だろう。しかし、多くの登録湿地が何らかの保全上の問題を抱えていると考えられる。
釧路会議はラムサール条約誕生後アジアで開催された最初の締約国会議であったが、条約の下でのアジァ地域は世界人口の半分以上を抱え、しかも当然ながら人々は水のある湿地の周りに集まっている。その圧力たるや大変大きなことは想像に難くない。
例えばインドでは6カ所の登録湿地があるが、その半分の3カ所がラムサールのモントルーレコードに挙げられている。ヨルダンにあるラムサール登録湿地は、首都アンマンへの水供給のためにポンプで水を汲み出し、水位が低下、モントルーレコードに掲載された。この結果、世界銀行などが主宰する「地球環境ファシリティー」の援助対象となり、多額の費用をかけた湿地の機能回復のためのリハビリテーションが行われている。インド政府やヨルダン政府は、それぞれの登録湿地がモントルーレコードに掲載されたことが速やかな対応策検討を促すことに役立ったと公式声明を発表している。
前回の締約国会議を主催したオーストラリアにおいても会議の開催前から終わった後まで、各地の湿地の問題がクローズアップされた。
ラムサール条約では湿地から人間の手を排除する厳正保護を唱えているわけではなく、湿地のワイズユース(賢明な利用)を条約誕生の1971年から提唱してきた。これはとりもなおさず、湿地の保全がすでに複雑な人間活動を巻き込んでおり、解決策を探すためには多くの人々の協カが必要だということが早くから認識されていたことにほかならない。政府、NGO、研究者、そして報道関係者の協力、それによってしか自然保護は前進しない。今回の新潟シンポジウムは、これらの人々が一堂に会して湿地保全を考える大変貴重な機会である。これを大きなステップにして、日本の湿地保全が前進することを願う。