1. 序章

1.1 背景と序論

ホエール・ウォッチングがこれまでに素晴らしい成功を収めてきたのは、たくさんの経済価値があるからだ。世界中の様々な場所で幅広く実施されるようになってきていること、また、過去数十年間に観光市場の中でも最も急成長を続ける部門のひとつとなっているという事実から、社会経済学的見地から地域社会に対しきわめて大きな、そして持続的な価値をもつものであることがわかる。しかしながら、環境費用や代替利用手段を考慮に入れた場合に、地域や国の中で金銭がどのように動くか、誰が益を得ているのか、実際にホエール・ウォッチングがどのくらい価値があるのかといった事柄についてはいまだにほとんど知られていないのが実態である。

ホエール・ウォッチングが実施されている地域における、世界経済影響(支出)の最近の見積もりによれば、世界中で540万人がホエール・ウォッチングに出かけており、実際のツアーや、食費、旅費、宿泊、土産品に推定5億400万ドルを費やしていることが分かっている(Hoyt 1995a)。

1991年から1994年までの間に、ホエール・ウォッチング参加者数は、年平均で10.3% の割合で増えており、総収入では16.6%の成長があった。

現在では65の国々と海外の島嶼領域において、何らかの営利的ホエール・ウォッチングが行なわれている。ホエール・ウォッチングは、アメリカ合衆国(カリフォルニアとニューイングランドでは20年以上)及びカナダ(ケベック州)のように数十年の歴史をもつ成熟産業に始まり、1980年代後半に開始されて急成長産業となっている地域、すなわち、オーストラリア、ニュージーランド、カナリア諸島、日本、そしてノルウェーにまで及んでいる(Hoyt 1995b, 1996)。また、1990年代中期における第三の波としては、アイスランド、フィリピン、インドネシア、香港、トンガ、台湾等におけるホエール・ウォッチングがある。後の2つのカテゴリーにおいては多くの場合、それなりの厳しい産みの苦しみを経験してきたが、その大部分では必要な調整も行なわれてきた。いくつかの場合には、経験の長い事業者から学んだりもしている。

実際に行なわれているホエール・ウォッチングを経済分析することによって得られるものは多い。そのような分析とは、ただ単に支出がどうなっているかを見るものではない。経済影響を評価することに加えて、社会的厚生(social welfare)、さらには代替利用の検討や環境費用を含んだ総合経済評価を実施することは有益だろう。そのような分析は、次にあげる多くの質問の答えを探すのに役立つだろう。

●経済性のみならず、教育、科学、リクリエーション、保全、地域社会の独自性(identity)といった多くの側面から、ホエール・ウォッチングが地域社会にとってどのくらい価値があるのか?
●観光で支出されるお金はどこへ行くのか、そしてどのように地域社会の中を流れるのか―また、誰が得をし、誰が損をするのか?
●乗数効果(multiplier effects)とは何で、地域社会や国の外側にどのくらいの「漏出量」があるのか?
●ホエール・ウォッチング旅行において、何が純経済価値―すなわち、「消費者余剰」―であるのか?ホエール・ウォッチングを行なう人々の支払意志額の上限はどのくらいの額であり、ホエール・ウォッチング旅行に付加価値を加えることによって、どのようにこの金額を獲得することができるのか?
●ホエール・ウォッチングの環境影響は何か、そしてそれらはミティゲーション(代償措置)、訪問者に対する課税やその他の手段によって対処することができるか?
●ホエール・ウォッチングによる社会的影響は何か?
●クジラ類の他の多くの利用方法とホエール・ウォッチングはどのように比較できるのか?
●ホエール・ウォッチングの価値はどうやって高めることができるか?

これらや他の質問に答えるために役立つ手段は、包括的な社会経済影響のアセスメントである。ホエール・ウォッチングを実施している人々、地域社会、保護区管理官や観光局職員達は、地域の経済学者と共に様々な評価技法を用いることにより、総合的経済価値、消費者余剰、社会的価値を計測し、経済影響アセスメントを開発することができるようになる。こういった仕事に役立つ技法は、仮想評価法(CVM)、旅行費用法(TCM)、社会会計マトリックス等であり、これらの技法を注意深く用いることが求められる。

ホエール・ウォッチングの評価には、クジラ類やその生息地の代替利用法についてアセスメントを行うことや、ホエール・ウォッチングの環境費用や社会的費用、そしてホエール・ウォッチングの価値を増大するための戦略を見ることなども含まれる。こういった側面については、本報告書の後半部分で扱われている。

本報告書はホエール・ウォッチングの社会経済的価値を人間側の観点から考慮したものだが、クジラ類とその保護の重要性を研究会参加者はしっかりと心に留めていた。仮にクジラ類が人間に観察されたり、何らかの形で利用されたりすることがないとしても、クジラ類はそれ自身本質的価値をもっていることが、研究会では基本前提として認識されていた。ホエール・ウォッチングを運営する人々や他の関係者達は、多くのクジラ類がもっている美しさ、好奇心、寛容さに依存しており、それらがなければホエール・ウォッチングは全く成立しない。さらにまた、ホエール・ウォッチング産業はクジラやイルカの仲間の健全な個体群があり、それらに接近できることに依存している。

自然環境保全は、社会経済的価値の中で、どのくらい考慮され議論されるのであろうか?クジラ類に対する人間の影響はかなりのものである―それは、捕鯨の長い歴史から、海洋汚染、生息地の劣化、漁業との利害衝突(彼らの仲間が漁網に巻き込まれることや、魚群誘導にイルカを用いることなどを含む)といった、より最近の問題まで広がっている。こういった自然保護上の問題に始まり、海洋環境の問題に人々が積極的に関わりを持ってもらうための手段として、クジラ類を軽度かつ持続的に利用しているホエール・ウォッチングが果たす役割について、多くのNGOや環境保全活動家が興味を持つようになった。ホエール・ウォッチングの環境影響を理解し上手に管理するためには、動物愛護団体や環境保護グループがホエール・ウォッチングによって参加者や地域社会にどのような影響があるのか考慮することが重要である。本報告書では、社会経済的影響(人間への影響)と環境影響とを結びつける考え方が説明されている。また、読者が、それぞれの地域でのホエール・ウォッチング社会における社会経済的影響と環境影響とを結びつけて研究することを推奨している。ホエール・ウォッチング産業が経済的に健全で、社会的に持続可能であり、適切に規制されるようにすることによって、ホエール・ウォッチングを運営している人々、地域社会、規制を行う担当者、NGOといった面々は、クジラ類に与えられる影響を最小のものとすることができる。

本報告書は、世界中で急成長を続けるホエール・ウォッチング産業の重要な要素として、こういった評価作業を実施することを考えている人々に、この話題について紹介し、ガイドブックとなることを目的としている。地域のホエール・ウォッチング産業を定期的に検討すれば、環境、社会、経済上のマイナスの影響を軽減し、多くのプラスの便益を高めることに役立つであろう。こうして、ホエール・ウォッチングは一層価値のあるものとなるだろう。


1.2. 研究会の成果と対象者

研究会では、あらかじめ報告書という形で、「配付可能」な成果を提供することが考慮されていた。この報告書が最大の効果を持てるよう、研究会参加者はまず報告書の目的と対象となる人々について論議を行った。本報告書は、ホエール・ウォッチング産業の発展が与える社会経済的な意味を追求するために、幅広い対象の人々に影響を与えることを意図している。これは、生態学的、社会的、経済的に持続的なホエール・ウォッチング産業を発展させなければならないという見地から実施されるものだ。クジラ類との持続可能で微妙な相互関係は、ホエール・ウォッチング産業の核心なのだが、これに関わり成功している世界規模の産業の姿を研究会では描いている。クジラ類を保護し注意を払う必要性から、この産業が社会への貢献度を最大にするよう努めることが期待されている。また、すべての産業の場合と同様だが、定期的に検討を加える必要性がある。本報告書では、観光ビジネスの一部門としての社会経済的状況を、ホエール・ウォッチング産業と地域社会とで協力して検討することを推奨している。

本報告書では、ホエール・ウォッチング産業の検討の中で扱われるべき課題として、次のような事項を検討している。

●ホエール・ウォッチングの真の経済的意義を判断すること。
●地域社会、国内産業や政府機関との適切な関係を通じ、ホエール・ウォッチングが地域や国家の経済発展のために最適な貢献を行えるようにすること。
●(ホエール・ウォッチングの累積的な環境費用を考慮に入れながら)ホエール・ウォッチングを生態学的に、そして社会的にも持続的なものとすること。
●例えば使用される燃料による影響といったホエール・ウォッチングによって生じる影響を強調して、クジラ類の生活史における生態学的な軌跡を減少させること。
●クジラ類の管理やホエール・ウォッチング産業の管理に関連した、政府の政策確立に影響を与えること。

ホエール・ウォッチング産業検討のための分析を実施させる引き金として、本報告書を定義することによって、対象となる人々の性質が明らかとなる。ホエール・ウォッチング産業検討を考慮すべき、あるいは検討に参加すべきと考えられる対象としては次のような人々や機関があげられる。

●海洋資源管理者(保護区の監督官を含む)
●ホエール・ウォッチングが行われている場所の地方自治体や地域社会
●ホエール・ウォッチング産業従事者(直接的または間接的にホエール・ウォッチングに依存している人々)
●研究者(クジラ類をはじめ、観光、エコツーリズム、海洋保護区やその他の関連テーマの研究に関与する生物学者、生態学者、地理学者、経済学者、及び社会学者)・国際捕鯨委員会(IWC)
●NGO/環境グループ
●発展途上国(中でも経済水準のより低い国々)における援助機関
●国連環境計画(UNEP)、国連開発計画(UNDP)、国連教育科学文化機関(UNESCO)、南太平洋地域環境計画(SPREP)、国際自然保護連合(IUCN)
●開発機関、地球環境ファシリティ(GEF)、世界銀行、アジア開発銀行
●環境、自然資源、観光、経済開発や漁業に関わる省庁といった政府機関、政府の国家政策の草案や計画策定に関わる人々、そして資金提供機関
●先住民グループ
●研究員/教員
●科学研究機関、これには海洋哺乳類学会(SMM)、ヨーロッパ鯨類協会(ECS)、アメリカ鯨類協会(ACS)、メキシコ海洋哺乳類研究協会(SOMEMMA)、南アメリカ水生哺乳類研究グループ、ラテンアメリカ水生哺乳類研究協会(SOLAMAC)、北米海洋哺乳類協会(NAMMA)が含まれる
●ホエール・ウォッチングに関する国際フォーラム、これにはオーストラリアで2年に1度開かれる管理に関する会議『クジラとの遭遇(Encounters with Whales)』や、ハワイのマウイで毎年開かれる会議『ホエールズ・アライブ(Whales Alive)』、そして日本では、国内での活動や国際的な活動を行っているホエール・ウォッチング従事者や研究者が集まって2年に1度開催している一連のフォーラムがある(1998年には北海道室蘭で開催されている)。