◆ケニアの様々な国立公園・保護区

 ケニアの主要な国立公園の説明をしていたら、それだけで一冊の本ができてしまうだろう。また、ケニアや他の東アフリカ諸国で見られる主要な野生動物の生態についても、それこそ何冊の本になってしまう。ここではケニアの観光に特に貢献している主要な国立公園・保護区を紹介しておく。

(1)  ナイロビ国立公園

  東アフリカの玄関、ナイロビ国際空港に到着する。着陸前に街を見ることができれば多くの高層ビルが建ち並び、大都会であることがわかる。そして大都会の傍らにサバンナが広がっていることもわかる。
  空港からタクシーに乗って、ナイロビ市街へと向かう。左手に、開けた土地が見える。実は空港からすぐ目と鼻の先に、東アフリカで最初の国立公園、ナイロビ国立公園が広がっているのだ。

  ケニア共和国の首都ナイロビから南に10キロ、中心街からもクルマで約20分の所にナイロビ国立公園がある。面積は117平方キロとアフリカの国立公園としては小さな方であるが、自動車で回るとゆうに半日はかかる。東アフリカにいる野生動物の代表的なものはアフリカゾウを除けば大体見ることができ、アフリカの自然公園のショーウインドウとも言われている。
  多少運の悪い人でもインパラ、コンゴニ、ヌー(ウシカモシカ)、バッファロー、シマウマ、キリン、ダチョウなんかは簡単に見られる。ちょっと運のいい人は、ライオン、チーター、セグロジャッカル、クロサイ、ブッシュバック、ナイルワニを見ることが出来るだろう。
  首都ナイロビに近いため、動物が町に侵入しないよう北側及び東西は柵が張り巡らされている。しかし、南側はオープンになっていて動物が自由に外部と行き来できる。南側はキテンゲラ自然保護地域(面積は568平方キロ)と呼ばれている。開発を懸念して地元の自然保護団体である「東アフリカ野生生物協会」が寄付を募ってこの保護地域の土地買い上げをしようとしたが、結局土地の私有地化は心配していたほど進まなかった経緯がある。ともあれ、雨期になるとヌーやシマウマなんかは南方に移動してしまうので、7〜8月にはごちゃっといるが、10〜12月には移動してしまってほとんど見られなくってしまう。 また、ライオンも年によってよく見られる年とまったく見られない年があるようだ。いる時にはライオンも夜になると国立公園の外を徘徊する。時々家畜の被害が出るし、1984年7月のことだが2頭のライオンがナイロビ国際空港の正門前に3時間以上居座ったことがある。もちろんその間は空港正門は閉鎖となっていた。
  日中、ライオン達は観光客のために(?)、おとなしく国立公園内で寝ているようだ。昼間ライオンの群れ(プライドという)をクルマが取り囲んでも、だいたい無頓着である。こんなもんを昔の人は標的にして銃で撃って、冒険談をでっち上げていたんだろうか?しかし、何台ものクルマがこれほど近づいても平気でいるようになったのは、やはり最近のことらしい。

  ナイロビに知り合いがいたり、自分で車を運転して行こうという人以外は、通常ナイロビ市内各所にあるサファリ会社にツアーを申し込んで参加するという形態をとる。主要なホテルの中にも受付がある。サファリとは現地語であるスワヒリ語で「旅」を意味する。多くの場合、日本車のステーションワゴンを改造したサファリカーに他の観光客と共に乗ることになる。改造されたサファリカーの利点は、クルマの天井が開くようになっていて、そこから外気を吸ったり、動物が近くにいる場合には窓越しではなく上方から観察、あるいはカメラ撮影ができることだ。
  長期間ケニアに滞在するような場合には、自分のクルマで行くことが多くなるわけだが、何はともあれちゃんとしたクルマに乗りたいものだ。
  僕が最初にケニアにいた頃も何度もナイロビ国立公園に通ったが、ポンコツのランドローバーに乗っていた。英国製で本来はとてもタフなクルマのはずだが、とにかくポンコツであった。ある日、一人でランドローバーを運転してナイロビ国立公園の結構端の方で動物を観察していた。そんな日に限ってそこからクルマを少し走らせると、エンジン部分から煙が出てきて、クルマは動かなくなってしまった。幸い夕暮れまでにインド人達が乗っているクルマが通りかかってくれたからよかったものの、ランドローバーの天井に上がり、周囲を見渡しながら助けとなるクルマが通りかかるまで待っている間の心細さはひとしおである。
  翌朝、自動車整備士と一緒にクルマを救出に再びナイロビ国立公園へ入ったら、ランドローバーの周りにはシマウマとダチョウが取り囲み、のどかな風景を醸し出していた。
  別の機会では、メルー国立公園という所で日本製の小型四輪駆動車に乗っていたのだが、結構時間が経っていたとはいえ、ライオンの群を見た後にエンストを起こしてしまった。しかもそこでは、滅多に他のクルマが通らないことを僕は知っていた。その時は、国立公園の司令部が比較的近くにあることを知っていたため、助けを待つのはあきらめて、アーミーナイフとスパナを両手に握りしめて、徒歩で15分ほど助けを求めて歩いた。あの時歩いていた間の緊張感は今でもはっきりと覚えている。
  子供の頃見た、確か『グレート・ハンティング』とかいう邦題がついていたドキュメンタリー映画の中の1コマに、サファリカーを不用心に出た白人男性がライオンに食われるシーンがあった。クルマの中からビデオ撮影したものだったと記憶しているが、食われている最中に靴が脱げて、靴下の足が持ち上がっている血まみれのシーンを生々しく覚えている。野生動物を見るサファリの最中に車を降りてはいけない。


(2)   アンボセリ国立公園
  アンボセリ国立公園はケニアの数ある国立公園の中でも最も有名に違いない。ナイロビ国立公園は例外的に普通の乗用車でも何とか園内を移動できるが、アンボセリへ向かうには四輪駆動車が必要だろう。ナイロビから日帰りも不可能ではないが、最低でも一泊した方がいい。早朝見るキリマンジャロ山の美しさはまた格別。ナイロビから200キロ強。タンザニアとの国境の町、ナマンガまでは自動車で2時間、そこから未舗装道路を60キロほど走らねばならない。ほこりまみれ覚悟だ。
  この国立公園ではタンザニア側のキリマンジャロ山の麓、野生動物がたくさん見られる。アンボセリ湖周辺の緑地帯に、アフリカゾウ、クロサイ、ヌー、シマウマ、ライオン、ガゼル、インパラ、バッファロー等々。
  この地域は以前は保護区であった。しかし、マサイ族の人々は野生動物の好む沼沢地に、家畜をどんどんと入れ、周囲の植生がほとんどなくなってしまうという状態となった。マサイの人々が家畜を中に入れられないよう、アンボセリを国立公園にする交渉は骨の折れるものだったらしい。結局、毎年補償金を支払い、家畜のために外部からパイプで水を供給するなどしてマサイ族が賛成し、国立公園になったのは1977年になってからだった。
  また、アンボセリはかって最も長い角を持ったサイが分布していることで有名だった。1950年代半ばには約120頭のサイがいたが、1967年までに55頭になってしまった。1977年にはアンボセリのクロサイ個体群は8頭だけになってしまった。その後15頭にまで増えたが、最近マサイ族との衝突が再び問題になっている。ポンプの故障・干ばつ等による影響でウシに十分な水をやれないマサイの人々が、ウシを連れて国立公園内に侵入して来るのだ。マサイの人々にとっても死活問題なので、公園レンジャー達も見て見ぬふりをすることが多い。

(3)   ツァボ国立公園
  ツァボ国立公園はケニア最大、そして世界の中でも十指に数えられる広大な国立公園である。東西2つに分かれていて、合計面積は2万平方キロ強というばかでかい国立公園である。何度も繰り返すが四国よりも広いのである。ナイロビを早朝出発、インド洋へと向かうモンバサ街道をひた走る。昼食後やっとツァボ入口に着くが、ここからキャンプ場や公園内のロッジまではまだまだ遠い。
  広いだけになかなか野生動物にお目にかかれないこともある。しかし森林には、100頭を越すアフリカゾウの群れが見られる。丘の上に登ってキリマンジャロ山や去って行くゾウの群れを見ていると時間のたつのを忘れる。見渡す限りの地平線、それがすべて国立公園の中なのだ。
  ケニア独立後の1960年代後半、この国立公園のウォーデンをディヴィッド・シェルドリックという白人がやっていた。ウォーデン(Warden)とは主任監視官のことであり、各国立公園の長である。この下にレンジャー等多くの国立公園スタッフが働いている。シェルドリックは、ツァボの植生を守るためゾウを3000頭間引くという当時の計画に真っ向から反対した。別の白人研究者グループがツァボ国立公園内の植生とゾウの関係を調べ、国立公園内のゾウの個体数が増えすぎているために、ゾウ達によって植生が変えられるまでになっていると結論づけたのだ。その結果、ケニア政府はゾウの個体数を適正規模に調整しようという計画を発表した。
  しかしそれまでシェルドリックは、ケニア人のレンジャーを訓練し、密猟対策部隊を組織し、密猟を行ったカンバ族等のケニア人を逮捕させていた。今までにケニア人にゾウを殺すことは悪いことだと教えようとしてきた彼に、合法的とはいえ他の白人がやってきて多量のゾウを殺すことを許せるはずがなかった。この問題はケニア国内にとどまらず世界中に報道もされて、大論争となった。その結果、世論に配慮した形でゾウの間引きは中止された。
  しかし皮肉なことに、その後1970年代初めに東アフリカを襲った干ばつによって、多くのゾウやサイが餓死するという事態を向かえた。死亡したゾウの数は6000頭とも9000頭とも言われた。シェルドリックの業績をたたえるため、「ディビッド・シェルドリック記念基金」という組織が作られている。代表はシェルドリックの未亡人ダフィーネ。シェルドリックがウォーデンをやっていた当時、夫妻は孤児になったゾウや多くの動物達と生活を共にし、世界中の人々の共感を得た。シェルドリックの奥さんは現在もケニアに在住し、孤児になったゾウの世話を続けている。確か日本製のドキュメンタリー映画「ガイア・シンフォニー」にも出演していたはずだ

(4) ナクル湖国立公園     1985.7.25

 今日はケニアの首都ナイロビから日帰りで行けるサファリにご招待。左手に感動的なリフト・バレー(注1)を見ながら乗用車を飛ばして2時間弱、ナイロビから150km強ほど北西にナクルの街がある。この街に近づくと、もうナクル湖が見えてくる。そして、水辺が一面のピンクに覆われている。フラミンゴの大群である。数十万のフラミンゴが生息しているのである。
 フラミンゴ以外にも鳥の種類が多く、アフリカで初めて鳥類を守るための保護区となり、1968年に国立公園となった。リフトバレーの中にはいくつもの湖があるのだが、特にこのナクル湖にフラミンゴが多いのは、多数派であるレッサー・フラミンゴの主食である藻類が多いからだと言われている。
 ナクル湖国立公園はあまりにもナクルの街に近いため、いろいろと問題が生じた。湖のすぐ近くにゴミ処理工場ができそうになったのだ。そこで1970年代初め、ヨーロッパでWWFを中心に”ナクル湖を守れ”と募金活動が行われた。ケニアの子供たちが資金調達のため、フラミンゴの羽を拾い集めてヨーロッパに送った。赤い羽根共同募金のような方法である。その結果、周辺の土地の買い上げ、柵を設置することが出来、1974年盛大なお祝いが開催された。その翌年、とんでもないことが起こった。せっかく守ったフラミンゴの大群が忽然と姿を消したのである。その代わりに、ケニアから南へ3000kmという、ボツワナの沼沢地にフラミンゴの大群が出現した。どうやら、日照りで湖水のアルカリ度が増し、藍藻の生育が妨げられたためらしい。現在は再び、ナクル湖でフラミンゴの大群にお目にかかることが出来る。フラミンゴの突然の大移動....まだまだ自然界にミステリーは多い。
 ナクル湖ではたくさんの鳥も見れるし、湖畔には野生動物も多い。ウォーターバックの群れも多いし、ベルベットモンキーも多い。運がよければヒョウも見れる。(注2)

(注1)大地溝帯。飛行機から見ると大地がそこだけバコッと落ち込んでいて、まさにアフリカ大陸の裂け目である。この中には火山やナイバシャ、エルメンタイタ等多くの湖がある。
(注2)ウォーターバックは図参照。図のように尾が全体的に白いのはデファッサ・ウォーターバックと呼ばれ、北ケニアのコモン・ウォーターバック(白い輪紋が尻にある)と別種とされている。しかし中間型も見られ、人によっては同一種と考える人もいる。




(5)  メルー国立公園
  メルー国立公園はケニアのほぼ中央に位置しているケニア山の東側にある。ナイロビからだとケニア山を回って300キロちょっととなる。結構な長旅になるので、余裕を見てできれば途中で一泊するのもいい。例えばナニュキという町に泊まって、朝焼けの中のケニア山を見ると言うのも美しい。
  メルーの町までは快適な舗装道路で、そこからしばらくの間の登りも舗装がされている。舗装が途切れてからは山越え谷越え行く感じになるが、砂ぼこりの中から平原が開けて来る。この道路も雨期の頃にはバスや乗合バス、トラックが泥の中で立ち往生している。そんな時には皆で助け合わねばならない。しかし、一旦自動車から降りたら泥まみれ、スタックした自動車を押そうものなら頭の先から泥を浴びてしまう。ま、それも時にはいい経験だろう。
  メルー国立公園は、小説や映画にもなった「野生のエルザ」の舞台になったところで、「エルザのキャンプ」なんて場所も公園内にある。ジョージとジョイ・アダムソン夫妻はジョージがウォーデンをしていた頃、孤児になったライオンにエルザという名前を付けて育てた。大きく成長したエルザを野性に返さねばならない時期が来たと判断した夫妻は、苦労の末成功する。しかし、野生に戻ったエルザは夫妻のことを忘れずにある日自分の子供達を連れて挨拶に来るというストーリーだ。人間とライオンの間に心の交流が成立した例として世界中で評価された。しかし、アダムソン夫人は1980年1月3日、使用人であった23歳のトゥルカナ族の青年に刺殺された。野生動物を愛していたが、現地の人々との交流はうまくいかず、使用人の恨みをかったための事件といわれている。夫であるジョージ・アダムソンはメルー国立公園に隣接するコラ国立保護区にいたが、彼も密猟者とおぼしき武装グループに襲われて射殺されてしまった。
  この国立公園では誰もが簡単にサイに触れることが出来た。ただしシロサイだ。シロサイはケニアでは、とうの昔に絶滅していたのだが、南アフリカで増殖に成功しているので、そのうち6頭を運んで来た。武装したレンジャーが厳重に保護をしているので、すっかり人に慣れてしまい、サイに触れたまま記念撮影が出来た。サイが逃走しないよう電気柵を設置中だったのだが、監視されていたにもかかわらず密猟者に殺されてしまった。

     参考:
      「アダムソン夫人の死」伊藤正孝著(1982)朝日新聞社刊『アフリカ33景』よりp.40-49.
      「アフリカにみる自然保護のジレンマ−ジョイ・アダムソンの死をめぐって」藤原英司(1980)『世界』1980年6月号p.321-327.岩波書店



(6)   サンブルー国立保護区
  サンブルー国立保護区は北ケニアの代表的な保護区だ。ケニア山よりさらに北へ向かう。周りの植物も変わってきて、かなり乾燥した地域であることが分かる。
  サンブルー国立保護区とバッファロー・スプリング国立保護区が隣接していて自由に行き来ができる。この保護区では、とにかく景観も野生動物もケニア南部とは変わっていることが特徴だ。
  乾燥地帯なので、川の近くで水を求めてやってくる動物の姿を見ることができる。わざわざ足を運んでも、がっかりすることはないだろう。ゾウやワニも多い。高級宿泊施設であるサンブルー・ロッジでは夜になるとヒョウが近くまでやって来るので、運が良ければ目撃できる。
  この地域の野生動物のうち、アミメキリンとグレービーシマウマは個体数の減少が心配されている。まだ危機的な状況ではないにしろ、保護区周辺の生息地の破壊と密猟が問題なのだ。グレービーシマウマは毛皮が美しいため、国境近くではよく密猟されるらしい。北部ケニアではエチオピアやスーダン、ウガンダ、ソマリアと国境を接しており、、武装難民が多いのである。実際、サンブルー国立保護区へ着く前に、イシオロという町を通るが、そこでは万が一に備えて個人の名前やクルマのナンバー等を登録してからでないとそれより北へは行けないのだ。
  またイシオロの町の周辺でも密猟が多い。このイシオロから、さらに北に350キロ程行ったところにマルサビットという町があり、ここでは密猟がかなり頻繁に行われていた。

(7)   マサイ=マラ国立保護区
  日本のTV取材班が最もひんぱんに訪れる動物保護区はまず間違いなくこの保護区だ。ケニアの有名な国立や国立保護区の中でも、動物の多さは折り紙付きだ。ナイロビからは結構な距離があるが、軽飛行機で移動することもできる。
  国境を越えたタンザニア側のセレンゲティ国立公園とは一つの生態系を形成しており、この中に150万頭いるといわれるヌーが季節的に移動を行っている。このヌーがケニア側に移動している7〜8月はヨーロッパのバカンスシーズンであり、日本も夏休みということもあって多くの観光客が欧米や日本から訪れる。
  気球に乗って大平原と野生動物を一望するというツアーもある。気球の降下先にはサファリカーが先回りしていて、気球に乗っていたお客さん達には「お疲れ様」のシャンパンが待っている。結構な値段がするが、上空から見るマサイ=マラは格別だ。しかし、日本人観光客を乗せた気球が墜落するという事故が発生した。脊髄を損傷するという大けがを負った人もいて、補償等もからんで大問題となった。現在ではガイドラインもできて、野生動物を脅かさないよう配慮するなどして一部でのみ行われているようだ。