アフリカの野生動物

(1) クロサイ

   ライオンも東アフリカを訪れる観光客に人気のある動物だが、クロサイもまた人気が高い。なぜなら、クロサイは今や最も絶滅の危険性の高い、したがって数年後には野生状態で見られなくなってしまうかもしれない動物の1種だからだ。
  ケニアのアンボセリ国立公園はケニアの中でも最も有名で人気が高い国立公園である。隣のタンザニア側には雄大なキリマンジャロ山がそびえ立つ。全体的には乾燥していてアカシアの木々が点在しているが、中央には沼沢地があり、水を求めてたくさんの野生動物が集まって来る。沼沢地をクルマでグルッと回れば、多くの野生動物に会うことができる。
  ここでもライオンの時と同じように、クロサイがいれば多くのクルマがまわりを取り囲もうとする。プロのドライバーの運転するクルマについて行ってみよう。いたいた!水たまりに下半分をどっぷりとつけた大きなクロサイだ。サイは世界中で5種類いる。アフリカにはこのクロサイとシロサイの2種類がいて、どちらも角が2本ある。実際には体の色が白かったり黒かったりするわけではない。おそらく最初に発見されたときの土の色の違いによるものだろう*
サイは前世紀の生き残りと言ってよい。恐竜を思わせる皮膚をしているが、薄い表皮のすぐ下を血管が走っている。したがって吸血昆虫から身を守るため泥を塗りたくることがよくある。また、このクロサイのように暑いときには水に入ることもある。
  ライオンの時と違ってこのクロサイは、クルマに近寄られることを喜ばしく思ってないようだ。水たまりからのそっと出て来て立ち止まった。下半分は濡れて黒光りしていて、ツートンカラーになっている。エンジン音を鳴り響かせてクルマがクロサイを追う。サイはトコトコと歩いて場所を変えるが、すぐに別のクルマが脇にやって来る。何分かクルマと追いかけっこをするうちに、このクロサイは遠くへと消えて行った。
 サイはとても視力が弱い。頼りになるのはきゅう覚である。クロサイは時としてクルマに向かって突進して来ることがある。しかし、実際に体当りをすることは、まず滅多にない。サイの角は骨が入っているわけではなく、皮膚の固まったもので我々の爪と同じようなもんである。しかし、この角を求めて密猟者がサイを狙う。クロサイは現在、全アフリカで4,000〜6,000頭と言われ、アフリカゾウに比べ圧倒的に数が少ない。したがってその値段もキログラム当り象牙の何十倍、時には何百倍にもなる**。多くのアフリカに人達にとっては何年も家族を養えるお金となる。
  サイの角は何に使われるのだろう。日本の正倉院にもサイの角が収められており、昔から日本に入っていたことが分かる。西洋の人々は、日本を含めた極東でサイの角は媚薬(催淫薬)として用いられると信じてきた。実際には、インドのごく一部を除く大部分の地域で風邪薬あるいは解熱剤として用いられているのだ。爪と同じ成分だから効果なんてあるはずがない、と西洋の研究者は言っている。しかし、日本にも1980年***までに毎年800kg平均のサイの角が輸入され、種々の漢方薬に入れられてきた。また、北イエメンでは成人の印として持つ短剣の柄に用いられ、これがステータス・シンボルとして人気を博している。
  1988年10月、ケニアのメルー国立公園で南アフリカから運ばれてきて可愛がられていた(実際に近寄っていって直接手で触れることもできた)5頭のシロサイが密猟者に殺された。武装したレンジャーが警備していたにもかかわらず、5頭とも角を切り取られ、死体は放置されていた。
  サイの受難は続く。

  * クロサイは木の葉をちぎって食べ、ちぎりとるのに便利なように唇はとがっている。一方、シロサイは地面の葉をむしりとって食べるため、それに適したように唇は     平で広くなっている。最初に現地の人々がシロサイを説明するのにwide-lipped rhino(広い唇のサイ)と言ったのを、whiteと聞き間違えたのだろうという話もある。
  **象牙は日本でキロ当たり1〜2万円。サイの角は香港の闇市場ではキロ300万円したこともある。
  *** 日本でワシントン条約が発効した年。

【参考】:「サイ角貿易の減少」 E.B.マーティン博士(1983)
      東アフリカ野生生物協会の会報”Swara(スワヒリ語でレイヨウのこと)”より。


 1970年代にサイから作られる様々な製品の値段は20倍にもはね上がり、このことが密猟を促進した。その結果、世界中のサイの半分以上が失われてしまった。しかし、1980〜82年の間に、残ったサイを守る運動が進められ、市場に出回っているサイの角は著しく減少した。また、この間のサイ製品の値段には、わずかな上昇しか見られず、長く続いたアジアでのサイ製品への要求は減ってきている。香港では、1979年以前に輸入されたサイ角が出回っており(注:1979年にサイ角の輸入を禁止)、1kg当たり約350万円する。薬商人はサイ角の代わりに水牛等の角を用いるよう客に勧めている。
 日本では、1980年のワシントン条約批准以降、サイ角の密輸は少ない。1981年に香港の業者がサイ角を粉末にし「動物の角」として日本に送り込んだ。1982年には密輸は非常に限られていたと思われる。日本では、サイから作られる製品のうちサイ角だけに需要があるのだが、過去2、3年要求は増加していない。小売価格はアジアで最も低いものの一つで、キロ当たり約50万円である。しかしながら、古い在庫が多い。(京都で訪れた漢方薬店15店すべてにサイ角が置いてあったが、よく売れてはいないようだ。)サイ角が過去のように、売れていない理由の一つは、1980年に厚生省が業者にサイ角の代用品をを売るように勧告したことがあげられる。しかし厚生省は(何人かの西洋人が信じているように)日本国内でのサイ角の消費を禁止したわけではない。日本のサイ角の主要な消費者は、熱や風邪、インフルエンザに対してサイ角を用いる長い伝統を持つ大阪・京都や奈良の人びとである。東京では需要は著しく少ない。将来、特に日本人が適当な代用物を用いるよう努力を続けるならば、サイ角を求める人びとは、より少なくなるだろう。
 韓国では「犀黄丸」という丸薬が作られる。韓国の医師達は、サイ角が利用できる間は、代用品は考えられないと言う。中国では、ワシントン条約によりサイ角の輸出は禁止されているが、マカオ等に輸出が行われている。マレーシア、シンガポール、インドネシアでは安い解熱水が、サイ角から作られている。野生動物製品のアジアにおける主要な中継地の一つであるシンガポールは、依然としてサイ製品の輸出入の規制をしていない。しかも300頭以下と言われるスマトラサイの角の市場となっているようだ。スマトラサイの角も一端シンガポールに入れば合法的に取引されるのである。1983年初めのアジア犀の角価格はキロ当たり約450万円で、一方アフリカ産の角は、キロ当たり約230万円であった。

 世界市場に出廻っているサイ角の量は1972-78年に年間8トンだったものが、1979-82年には年間4トン以下に減少している。この理由はいくつかある。まず、最も重要なこととして香港と日本がそれぞれ1979年、1980年にサイ角の輸入を禁止したことがあげられる。二番目に、安い代用品(サイガの角等)が解熱剤として広く用いられるようになったことがあげられる。また、サイの減少が広く知れ渡るようになったことも一因である。
 北イエメンでは、1982年終わりにサイ角輸入を禁止したが、いまだに密輸が行われている。
 中国は、今だ多量のサイ角を含んでいる錠剤を輸出している。それらはシンガポール、香港、マカオだけでなく、日本、韓国、フィリピンとアジア中の漢方薬店で見ることが出来る。錠剤に、サイ角が入っているかどうか見分けることは難しいので、ワシントン条約を批准した国々でも輸入することが出来るのである。
 1979年以降、サイ角の需要も価格も国際市場では著しい上昇を示してはいない。しかし、残りのアフリカサイ16,000頭、アジアサイ2、000頭を求める密猟者は依然として存在している。

 注:マーティン博士は日本へも2回やってきて、かなりの日本通だが、
   講演でも日本に関しては同じことを言っていたので、出来るだけ忠実に
   訳してみました。


ケニアのクロサイ救助作戦


 アフリカ全土のクロサイ(Diceros bicornis)の総個体数は4000〜6000頭と言われている。日本は1980年にワシントン条約を批准するまで、年平均約800キロのサイ角を、主として薬用を目的に輸入していたとして、欧米の自然保護論者に非難されてきた。かつて「救心」には1箱(60粒入)中0.06グラム、「小児烏犀角散」には1箱(15包入)中0.5グラムのサイ角粉末が入っていた。ケニアにおいては、1969年にクロサイは少なくとも1万6000頭あるいは2万頭はいただろうと考えられている。それが1987年現在は425頭になってしまった。干ばつ、ケニアの人口増加とそれに伴う土地利用、そして密輸がクロサイ減少の主たる原因と考えられる。ケニア全土(国土面積は日本の約1.6倍)に400頭ちょっとのクロサイが散在しているのでは、繁殖のチャンスも少なく有効な保護策もとれない。そう判断して、ケニア政府は東アフリカ野生生物協会(East African Wildlife Society)や、アフリカ野生生物財団(African Wildlife Foundation)の援助を得て、強力なサイ保護策を推進することにした。その一つがクロサイをいくつかのサンクチュアリに移動させて、まとめて保護しようという計画である。現在、フラミンゴの大群で有名なナクル湖国立公園に電気柵で囲まれたサンクチュアリを建設中である【1987年中にオープン】。
 今回はケニアで野生動物がもっとも多いと言われる地域一タンザニアのセレンゲティ平原に続くマサイマラ国立保護区で行われクロサイ親子の移動作戦の模様をレポートしよう。これは1986年9月の出来事である。
 母親の名はハリマ、今年10才になるクロサイである。彼女の母親は密猟者に殺され、彼女は孤児となった。ハリマの最初の子供は、生まれて6ヶ月の時にライオンに殺されてしまった。2度目の子供も9ヶ月目にやはりライオンに殺された。サイの交尾は無器用なもので、妊娠期間は16ケ月に及ぶ。3度目の子供の名前はサム。彼には武装した護衛が24時間つくことになった。しかし、護衛をしているレンジャーはある日14頭ものライオンがサムに忍び寄ろうとしているのを目撃した。いくら1.5トンの体重をもつ母親であっても、サムをライオンから守り続けることは不可能に近いと思われた。
 サイ保護に熱心な保護区内のロッジ経営者から、親子をもっと安全な所に移動させるべきだという提案が関係者にされた。当初、野生生物局は、それならば彼のロッジのすぐ外に檻を作り、その中に2頭を入れて観光客に見せることにしたらどうかと考えた。しかし、経営者はその申し入れには賛成しなかった。
 そのため別の場所が捜されることになり、保護区内の川沿いにある広い凹んだ土地が選ばれた。計画は認可され、国立保護区担当官と彼の部下8名、そして獣医師が計画を担当することになった。
 まず四輪駆動車の上からハリマに麻酔銃を撃ったものの、麻酔が効き出すのに20分はかかる。その間に母サイは薮の中に消えてしまい、計画は翌日まで持ち越された。しかし、夜の間にハリマと息子のサムは移動してしまったため、翌朝セスナと車、徒歩による捜索が行われた。無線で発見の知らせが届いたが、再び見失ってしまう。午前l1時半、誰もが焦っていた。再び飛行機が飛んだ。
 ようやく発見できた。獣医師はレンジャーと共に用心しながら徒歩で近づいて,再び母サイに麻酔銃を撃った。その間、母子を警戒させないよう車は一時姿を隠すことにした。ハリマに薬が効き始めるにつれて、現場にトラックを近づけていった。ハリマは予測よりも10分間長く薬に抵抗した。そこで補充の麻酔が注射によって加えられ、捕獲部隊はようやく彼女を縛ることに成功した。落ち着かせるために目は布で覆われた。抗生物質を注射され、彼女はトラックに積み込まれた。サムの方は麻酔を用いず、追い立てて檻に収容した。
 1時間半後、2頭はサンクチュアリ近くの檻に別々に収容された。ハリマには解毒剤が与えられ、二つの檻の間の柵が開けられた。やがてサムは母サイに近づき、乳を飲み出した。2頭ともおとなしくしている。そして新しいサンクチュアリへの扉が開かれた。

                                                                                        1987年3月記


(2) アフリカゾウ

  日本の動物園でライオンとゾウほど人々に愛される動物はないだろう。その中でライオンはまだ大丈夫と思われるが、ゾウは21世紀までには絶滅してしまう恐れがあると言う。本当だろうか?
  1986年11月、僕がよく訪れていたケニアのメルー国立公園に密猟者が侵入、自動小銃で5頭のゾウを射殺、象牙を奪って逃走した。観光客がよく行く国立公園のど真ん中で密猟が行われることは、ケニアでは数年来なかったことだった。そして、1988年、僕が再びケニアを訪れているとゾウの密猟は社会問題にまでなっていた。
  まず、隣国のソマリアから14名の武装集団がケニアに侵入、約60頭のゾウを射殺したと伝えられた。2 月にツァボ国立公園で行われた調査では、2421頭のゾウの死体が確認され、そのうち162頭は1年以内に殺されていることが分かった。5〜8月の間にツァボではさらに64頭、そしてコラ国立保護区では11頭、メルーで9頭、シャバ保護区で8頭、合計92頭が4カ月の間に殺された。そして各地で警官隊と密猟者の間に銃撃戦が行われ、ガリッサでは密猟者は2本の象牙を残して逃亡した。密猟者はゾウを射殺すると、電気ノコギリで象牙を切り取り、あっという間に逃走してしまう。
  報告によると、野生のアジアゾウは5万頭以下、アフリカゾウは全部で70万頭いると言われている。この70万という数字を多いととらえるか少ないととらえるかが立場によって異なっている。1981年に国際自然保護連合(IUCN)が出したアフリカゾウの推定個体数は少なくとも110万頭というものであった。5年で40万頭も減ったと言うのが事実であれば、10年でアフリカゾウは絶滅してしまうことになる。ケニアの野生生物保護管理局オリンド博士や白人の自然保護論者は「密猟を減らすためには、極東の象牙の需要−日本と香港の象牙輸入をストップさせるべきだ」と言っている。日本は1983年と84年で合計5万頭以上のゾウに相当する量の象牙を輸入した。
  一方、アフリカゾウはきわめて良好な生息状況にあると主張する人々もいる。日本ではもとハンターの田島健二氏が「最後のサファリ」(草思社、1988)の中でアフリカゾウの現状について言及している。1981年のIUCNのおそらくは130万頭生息しているという数字を用い、ほとんどがケニア在住イアン・パーカー氏の著作「Ivory Crisis(象牙の危機)」によっているのだが、こちらの主張を知ることも重要であろう。
  陸上最大の動物、ゾウ。彼らはその大きさゆえに1日に150kgもの食物を必要とする。彼らは草や葉だけでなく木の木質部をも食べることができる。そして1頭のゾウが迷い込んだだけで人間の畑は壊滅的な打撃をこうむる。どこかにゾウ達の安住の地がなくてはならないが、「あなたの家のそばにいるゾウを暖かく見守ってほしい」と被害に苦しむアフリカ人達に言うだけではすまされない。人々の苦しみを理解した上で世界中の人々がゾウを守らねばならないと考えなければアフリカゾウに未来はない。

再びアフリカゾウ 1989年6月15日

 今年の10月にスイスで開かれるワシ.ントン条約の会議では象牙の問題が争点となると考えられる。1986年から行われてきた割当制度(象牙の産出国ごとに楠出できる象牙の量をスイスにあるワンントン条約本部に登録する制度)の見直しが行われるからだ。タンザニアそしてケニアは、アフリカゾウを付属書Tに格上げするよう提案を行っている。付属書Tに入っている野生動物およびそれから作られる型品の商取引は禁止されている。したがって象牙の取引は全面的に禁止されることになるわけだ。この提案に対し、10月の会議で世界各国がどう対応するかが注目されている。ちなみに日本は1988年に総計100トン以上の象牙を輸入し、そのために約30億円を支払っている。83年、84年にはそれぞれ470トン以上輸入し70億円以上が支払われた。日本の輸入が世界市場に出まわる象牙のうちどれくらいの割合を占めているかはまだはっきりした数宇が出ていない。日本と香港で75%を輸人するとか、日本と香港は35%ずっだとか、日本だけで50〜80%占めるとか言われる。研究者によると世界市場に出まわる象牙のうち8割は密猟によって得られたものだと言う。また、日本に輸入される象牙の過半数は印鑑を作るために使われていると言われている。
 5月の初め、ナイロビ在住の獣医神戸俊平さんと僕とで、アフリカゾウの専門家イアン・ダグラス・ハミルトン博士にインタビューを行った。その内容を藺単に紹介しよう。

SK「1981年にIUCN(国際目然保護連合)が発表した全アフリカゾウの推定数は110〜130万頭で、一昨年の発表では約70万頭でしたね。この差はアフリカゾウの実際の減少と考えられるのでしょうか?」
IDH(イアン・ダグラス・ハミルトン)「残念ながら.事態はもっと深刻だと考えられる。1981年の110万頭という数字は推定された最少の個体数で実際はもっと多かったと考えられる。一方、87年の70万頭というのは、残存していると考えられる最多の個体数だ。したがってその差一損失というのはもっとずっと多いと考えていい。」
SK「しかし、70万という数は決して少ないとは言えないと思います。アフリカでも例えば2万頭以下と言われるチーターやグレービーシマウマに比べると、アフリカゾウは種として絶滅の危穣に瀕しているとは言えないのではないでしょうか。」
IDH「問題なのは現在の個体数というより、その減り方だ。確かに君の言う通り、チーターなんかは数が少ないが、ここ数年で急に減少しているわけではない。アフリカゾウの場合、過去10間の減少傾向がこのまま続けば、あと10年一21世紀までには全くいなくなってしまう恐れがある。」
SK「自然保護論者の中にも、例えば“lvory Crisis”(象牙の危機)を出版したイアン・パーカー氏のように.アフリカゾウは危機的状況にはないと主張する人々もいると思いますが…」
lDH「私は、彼も現在ではすでに自分の考えを訂正したものと信じている。最近のアフリカゾウの減少は楽観視するにはあまりにも激しい。」
SK「アジアゾウはアフリカゾウに比べるとずっと少ないと思いますが、どうしてアフリカゾウの密猟ばかりが問題とされるのでしょうか。」
IDH「アジアゾウは大体5万頭以下**だと思う。アジアの人々はアジアゾウを飼い慣らして作業に使うなどして、伝統的にゾウを大切にしてきているのだと思う。」

   * 正確に記すと、1981年は1,194,331頭(この数宇は実際よりも少なかったと考えられている)で87年は764,410頭。
  ** WWFインターナショナルのジョン・ハンクス博士から手紙をもらい、その中でアジアゾウの数は29,000から44,000頭の間、
     危機に瀕している動物と考えられているとあった。

 話し合いはまだまだ続いたが、ともかく大量の象牙を翰人している日本で、人々がアフリカゾウ密猟の惨状についてもっとよく知ってもらうことが大切だという点で、僕たちの考えは一致した。

続々アフリカゾウ

 ケニアの南にあるツァボ国立公園では特にゾウを狽う密猟者が俳徊している。ゾウ達は比較的安全な公園内のホテルやロッジの近くでたむろするようになったという。そして公園の南にあるムワタテの町の近くにも出現するようになった。昨年末、町の近くで婦人が殺された。ゾウに襲われたのだ。今年1月2日、午後5時頃新年ディスコパーティの帰り道、5名の高校生がサイザル麻畑を通っていると突然ゾウの群れが襲いかかり、ひとりが殺された。その後、農場で葬式の参列者に襲いかかろうとしたオスゾウが、ゲーム・レンジャーに射殺された。この他に、2頭のゾウがレンジャーに射殺されている。ゾウの群れはムワタテの貯水池へ水を飲みにいく途中で、マンゴの木を次から次へと押し倒し、引き裂いてしまう。そしてとうとう実の付いたトウモロコシ畑へ侵人、数dのトウモロコンを食べてしまった。多くの農民はゾウにやられるのを恐れて、青いままのトウモロコシを収穫してしまうようになった。ある農家の地域の9割のマンゴがゾウによって破壊されたという。何人かの農民は自分の農地を放棄してしまった。
 また、マサイマラ国立保護区に近いナロックの町では、赤ん坊を背負った母親がゾウに襲われた。目撃者の話によると.ゾウは牙を母親の足の間に入れ上下にゆさぶり、赤ん坊はこのとき背中からころがり落ちた。ゾウは牙を母親の胸に突き刺し、母親は死亡したが幸い赤ん坊は一命をとりとめた。
 また、別の所では腹を識らした14才の少年が槍でキリンに襲いかかった。傷を負ったキリンは走って逃げたが、とうとう力つきて倒れ死亡した。それを追っかけてきた少年は逮捕された。ケニアでは野生動物を殺すことは禁じられている。
 土地を求める人々は国立公園や保護区に侵入し、土地を耕したり家を建てたり密猟をしたりする。一方、野生動物も公園や保護区から出てきては耕作地を荒らし人々に襲いかかる。ケニアのモイ大銃領はこうした事態の深刻化に対処するため、国立公園・保護区の多くを電気棚で囲うことを命じた。普通の棚ではゾウに壊されてしまうのだ。
 インド洋に近いクワレの町では、夜になって町中をゾウの群れが俳徊し、バーで飲んでいた人々は翌朝までバーに閉じ込められて外に出ることが出来なかった。笑い事ではない!南スーダンでは内戦で数千の死体が放棄されていたため、ハイエナが人肉の味を覚え、今や夜間に窓から人家に侵入して子供を襲ったり、病院を群れで襲って動けない患者を喰ったりしていると報告されている。南タンザニアでは過去2年間に少なくとも50名がライオンに殺されている。タナ川やビクトリア湖では水を汲みに行ったり水浴びをしているとワニに襲われる危険がある。入々の見ている前でワニに足をくわえられ水中に引きずり込まれた例もある。魚網設置のためポートをこいでいた男が6頭のカバに襲われ、水中へ転落し溺れ死んだ。シマウマや小さなディクディクでさえ畑を荒らすと苦情を聞かされた。
 密猟者と警備隊との戦いもだんだん杜絶となる。今や密猟者は弓や槍をもった人々ではなく、マシンガンで無差別に動物を殺し象牙やサイ角はチェーンソー(電勤のこぎり)であっという間に切り取ってしまう集団である。動物がいない場合でも、強盗団になってしまったりする。密猟者と警備隊の問で数時間にも及ぷ銃撃戦が繰り広げられるなんてことはざらにあるようになってしまった。レンジャー達の乗ったジープが待ち伏せに合い、マシンガンを乱射され、1名を除いて皆殺しになった例もある。
 これは一種の戦争である。昨年末、大統領によって密猟者は見つけ次第射殺せよという命令が出されて以降、観光立国ケニアでも今年の6月末までに21名の密猟者が殺されている。4月にはツァボとアンボセリ国立公園の間で、観光客を乗せた2台のパンが襲撃にあい、3名の観光客が銃撃により重傷を負った。僕の調査地の近く、メルー国立公園では7月にとうとう2名の観光客が殺された。フランス人の夫婦でロッジに帰る道がわからなくなったらしく、クルマであまり人が行かない道に入り込んだ。明かりを見っけた2人は、キャンプファイァーと思ってクルマを近づけた。しかし、それは密猟者達がシマウマを殺して肉を食べている最中だったのだ。不幸な二人は警備隊と間違えられ、銃撃されたものと当局は見ている。
 6月末、新しく野生生物局局長になったリーキー博士は、ケニアでは1日平均2頭のゾウが殺されていたが、5月は全体で報告されたのは9頭のみだったと、密猟対策が効果をあげてきていると発表した。
 7月、ユニセフ(国連児童福祉基金)はケニアの西、キスム地域だけで1日に120名の子供が死亡していると伝えた。


(3) ライオン
  ケニアのマサイ・マラ国立保護区。広大な平原を、観光客をぎっしり詰め込んだサファリカーが砂煙をあげて走って行く。最初はキリンやゾウにもキャーッキャーッと興奮していた観光客もしだいにおとなしくなってくる。ここらで何か目新しい動物でも出てこないかナとキョロキョロし出す。「シンバ!(ライオンだ)」、目のいいドライバーがいち早く見つけ、アクセルを踏み込む。
  立派な立て髪をしたオスライオンがのそっと立ち上がり、大あくびをした。そのまわりに1台、また1台とクルマが集まって来て、あっという間にそのライオンは10台ものクルマに取り囲まれてしまった。パシャパシャとカメラのシャッターの音。標準レンズしか持っていないお客のリクエストに答えて、サファリカーはライオンのすぐ近くまで来る。
  しかし、ライオンは意に介した様子もなく、スタスタとサファリカーの陰に入るとゴロンと寝てしまった。さすが王者、堂々としている!?でも、実際のところ、ライオン君はもうすっかりクルマに慣れてしまったようだ。そりゃそうだ。毎日毎日、寝ても起きてもクルマの群れに追っかけまわされてきたのだから。
運が良ければ、早朝しとめたばかりのバッファローやシマウマの死体を口の周りを真っ赤に染めながらむさぼり食っているライオンにお目にかかれる。狩りをするのはメスのことが多い。オスはその立て髪が目立ってしまうからだろうか。メス達が捕った獲物があれば、喜んで分捕らせてもらう。もちろんハイエナもライオンが捕らえた動物のおすそわけにあずかることもあるが、むしろライオンの方がハイエナの恩恵を受けている。しかし、そうは言っても、やはりライオンの強大さは比肩がない。ハイエナは年老いたもの、子供や病気になった個体を追跡して倒すことが多いが、ライオンは250sもある健康な成獣を定期的に襲う。
   私が1987〜88年に滞在したタンザニアのマハレ山塊国立公園にいるチンパンジーも、ライオンも、一つの群れには複数のオスと複数のメス、そして子供達がいる。チンパンジーでは群れと群れの間をメスが移動するが、ライオンではオス達が移動する。
  そして、チンパンジーも時として同じチンパンジーの子供を殺してしまうことがあるが、ライオンもまた子供達を殺すことがある。ライオンの場合、新たに群れに入ってきたオス達が前のオスを追い出したときに、前のオスの子供達をかみ殺してしまうことがある。そして、メス達に自分達の子供を産ませるのだ。しかし、ライオンでは子供の死亡率が高く、2歳になるまでに8割の子供が飢え等で死んでしまう。自然はきびしい。
  かつて、アフリカ中そして広くアジアにまたがって分布していたライオンは、まず北アフリカでいなくなり、アジアでは今やインド北西部に1個体群がいるのみである。古代ローマ人は北アフリカや中近東から連れてきたライオンで死刑を執行していた。この刑はヨーロッパでは中世まで続いていたとされる。近代に入って、アフリカに銃を持ち込んだ白人ハンター達はこぞってライオンを撃ち殺していた。そして現在、アフリカでは人口が急激に増え開発が進み、ライオン達の住み場所は年々減少している。ライオンがいる場所では、ライオンが家畜を襲ったり、時には人間を襲ったりして、人々に恐れられる。人間とライオンの共存の道はあるのだろうか。

(4)  チーター
  キリンが最もエレガントな草食動物と言えるなら、チーターは最もエレガントな肉食獣と言えるだろう。陸上で最も速く走れる(最高時速113km/h)けれど、300mが限界である。したがって、いつも走り回って獲物を狩っているのではなく、可能なかぎり狙った動物にこっそり近づこうとする。他のネコ科動物と違ってチーターは、その爪を完全に引っ込めることが出来ない。これが、地面をける力を強めているのであるが、そのスレンダーな体形とともにイヌ科と間違えられた原因となっている。
  チーターは主としてガゼルやインパラなど中型レイヨウ類、特に若い個体を狩る。狩りの成功率は高いが、他の肉食獣−ライオンやハイエナ等に容易に獲物を奪われてしまう。また他の肉食獣のように、殺した獲物の所へ再びやって来て食べたり、たまたま見つけた死体の肉を喰ったりもしない。
  そのスピードと人に慣れやすい性質から、チーターは昔から狩猟用として人に飼われていた。4000年前の飼育の記録もある。現在はアフリカ以外では中東と南アジアのごく一部にいるだけで、こちらの亜種アジアチーターは絶滅の危機に瀕している。かってはアフリカの大部分、そして南アジア・中東・インドに分布しており、『チーター』という名前はインドの言葉で「斑点のあるもの」を意味している。16世紀にはアラブ・アビシニア等で広く飼われていて、インドのアクバール大帝は1000頭ものチーターをレイヨウ狩り用に飼育していたという記録がある。
  狩猟用に使われるチーターは、野生のものを捕獲したものでなければならなかった。人に赤ん坊の時から飼われていたチーターは狩りの役に立たない。これは、母親に教わって初めてチーターはその狩猟能力を身につけるということを意味している。
  チーターの赤ん坊は、ちょっと変わった毛色をしている。普通、動物の毛色は多くのレイヨウ類で見られるように背面が濃く腹部にかけて色が薄くなるのだが、チーターの赤ん坊は背中が長い青灰色の毛で覆われ、下面はほとんど黒となっている。青灰色の毛は生後3カ月まで存在し、その機能については不明である。
  チーターの子供は17ヶ月位から親から離れてゆくが、15カ月位でほぼ大人と同じ体格となる。数頭のチーターを一緒に見かけた時に、まだ首すじから肩にかけて長い毛が残っていればそれは子供達だ。また、チーターはイエネコのようにのどをごろごろ鳴らせる唯一の大型ネコ科動物だそうだが、僕はまだ野生のチーターに近づいていって撫でてそれを確かめる光栄にまだ浴していない。
  チーターはアフリカ全体でも2万頭以下と言われている。『野生のエルザ』を書いたジョイ・アダムソンによれば彼女の飼っていたピッパは乳首が13あったそうだ。エルザ(ライオン)は5つ、ヒョウの赤ん坊には4つあった。チーターは一産1〜8子(平均3子)、ライオンは一産1〜5子(平均2〜3子)、ヒョウは一産1〜6子(平均3子)である。乳首の数にあまり関係なく、生まれてくる子供の数は平均すると一緒だがやはりチーターの場合最高数が多い。ライオンの場合も子供の死亡率が高いがチーターもある地域の報告では、半分から4分の3が生後3カ月以内に死んでしまうとあった。このチーターの赤ん坊の死亡率の高さの原因も分かっていない。
  チーターは月の明るい夜にも狩りをすることがあるが、主として日中に狩りを行う。そうすることによって、主として夜間に狩りを行う他の大型肉食獣との競争を避けていると考えられる。しかし日中の狩りも、獲物を倒すとすぐにハゲワシ達が群がってくるわけで、それを目当てにハイエナやライオンもやって来て、チーターから獲物を横取りしてしまう。ケニアでチーターをよく見かける場所は、ナイロビ国立公園とアンボセリ国立公園で、どちらもハイエナの数が少ない。ハイエナの存在は、チーターにとってうっとうしいようだ。しかし、ハイエナがいなくてもチーターにとって迷惑な存在がいる。観光客だ。ガイド達はサファリ・カーがすれ違うたびに情報を交換するし、中には無線でチーターの位置を確認しあっている会社もある。アンボセリではチーターの周りに10台ものクルマが取り囲むなんてことが、毎日のようにある。クルマに追いかけ回されて、狩りをやめてしまったという例がいくつもある。観光客がチーターに与えている影響については、きちんと調べて対策を考えた方がいいだろう。


(5)  ヒョウ
  先日、北海道大学でイギリスはケンブリッジ大学の動物学(正確には哺乳類の生態と繁殖の研究グループ)のピーター・ジェウェル教授の講演を聞いた。 ケニアやジンバブエを中心とした野生動物の生態と保護に関してスライドをまじえて、わかりやすい英語で講演をしてくれた。彼のもとで、北大の獣医学部を出た女性水谷さんがヒョウの研究を始めた。ケニア山の北にある牧場の一角でヒョウを捕獲し、電波発信器(テレメーター)を装着して、放逐後の行動を追う計画だ。
  教授の講演の中でアフリカゾウについて、ジンバブエはじめアフリカ南部諸国では適正管理のもとに間引いたゾウから得られる象牙が売却できずに困っているという話が出た。適正な管理のもとでは、間引いた動物から得られたものは経済的に利用され、その利益が動物保護なり地域の住民の生活のために還元されるべきだという考えに立っているのだ。講演の中では、ゾウによる植生破壊、そして間引き及び自然死から得られる象牙をどうすればいいのか、みんなで考えてほしいという柔らかな問いかけであったが、簡単に言ってしまえば教授は象牙取引全面禁止に反対を主張しているのだ。
  同じケンブリッジ大から、かつてケニアのツァボ国立公園でゾウの間引きをしようとしたリチャード・ロウズ博士は当時公園監督官をしていたディビッド・シェルドリックら保護派と世論に負けて、間引き計画は中止になったという経過がある。
  これまでにも象牙の問題にたびたび触れてきたので詳しくは述べないが、象牙の取引と密猟の問題は社会学的な問題である。したがって、純粋に資源生物学的な考え方だけで判断することは偏りがある。

  閑話休題。水谷−ジェウェルの研究では、牧場において家畜がヒョウに襲われるのを防ぐことが大きな目的となっている。かつて毛皮猟のために世界中で美しい斑をもつネコ科動物(特に大型)が減少していると言われ、保護が唱えられてきた。講演の際に、ジェウェル教授にヒョウの被害の多発はヒョウが増えていることを意味しているのでしょうか、と質問した。教授の答えは「私はヒョウが絶滅の危機に陥ったことは今までに一度もなかったと考えている」というものであった。
  確かにヒョウの被害はけっこうある。マサイの家(マニアッタ)にヒョウが侵入し、老人と女子供を含む4名が殺されるという事件があった。台所で家事をしている母親の目の前でヒョウが赤ん坊をさらっていったという例や、ヒョウは忍び足も得意なため、寝ている母親の胸元から赤ん坊をさらったという報告もある。ナイロビ郊外の某大使の家ではヒョウが続けて庭に侵入し、騒ぎとなったことがある。マサイマラ国立保護区のあるナロック県で僕が行った家畜被害の調査では、ライオンによる牛の被害とヒョウによる羊の被害が多かった。
 
  夜行性であるから、目撃するのはなかなか難しいが、気をつけていると木の枝の間から尻尾が垂れ下がっていて、昼寝中のヒョウを見つけることがある。時には昼間、地面を横断しているのを見ることもある。そんな時にはチーターと間違えやすいが、体格・顔つき・斑紋で区別ができる。
  ヒョウはいくつかの亜種がアフリカから北朝鮮まで広く分布しており、中には黒変種であるクロヒョウも見かけることがある。僕はまだ黒い奴は見たことがない。ケニア山周辺やタンザニアのゴロンゴロ・クレーター周辺にはいるという話を聞くのだけれども。
  タンザニアのマハレ国立公園にいたときは、住んでた山小屋の周りを夜になるとヒョウが徘徊したものだった。アメリカ人研究者が鶏を飼っていて、それをつけ狙っていて、小屋の界隈に出没するようになったらしい。僕は寝つきはいいのだが、小屋の壁1枚隔てた頭の脇でせき込むような声で吠えられた時には、さすがに一発で目がさめた。チーターは大型ネコとは思えない甲高い声を出すが、ヒョウのはしゃがれた太い声で迫力があった。ヒョウといえど、あなどってはいけない。アジアでの例だが、人喰いとなり、100人以上の人を殺した個体もいるのである。
   ヒョウがヒヒ・チンパンジーをはじめとする霊長類の天敵であることは良く知られている。あるヒョウが大人のオスゴリラを殺したという報告もある。マハレでは、ヒョウの子供をチンパンジー達が穴から引きずり出して殺してしまったことがある。ヒョウの子供も将来ちゃんと大人に成長したら、チンパンジー達の脅威となるから、前もって殺してしまったのだろうか。

  ヒョウは小さいのはゾウの糞なんかを丸めてころがして歩く甲虫類のフンコロガシや魚・サワガニから、大きな有蹄類にいたるまでと、ライオンやチーターに比べ幅の広い食事リストを持っている。ヒョウが特に好む動物としてはジャッカル、そしてヤマアラシが知られる。ゴロンゴロからの報告では11例のヒョウによる狩りの目撃中、7例がジャッカルを殺していた。ヒョウはまた、人間が飼う犬(ジャッカルとは親類)を喰うのが結構好みらしい。ジャッカルや犬の場合殺した後で食うのだが、ジャッカル殺しには潜在的にライバルとなる肉食動物を殺そうという傾向が働いているようだ。同じ理由からかライオンとヒョウは互いに殺し合う。
  ヤマアラシの場合、鋭いトゲが身を守っているため、用心して鼻先を攻撃しなければならない。ウガンダの例では、ヤマアラシのトゲがのどに突き刺さってしまい、人喰いとなったヒョウがロッジの受付係を殺してしまったことがある。
  また、ヒョウは特定の動物に対しての好みを持つようになることがある。ザンビアで大きなダムの建設によって広い面積が水没してしまい、ダム湖の中の島に、メスヒョウが多くのインパラ、ヒヒの群れ、そして少数のダイカー(小型のレイヨウ類)が閉じ込められたことがある。インパラとヒヒが容易に手の届く範囲にあるにもかかわらず、そのメスヒョウはまずダイカーのみを1頭また1頭と捕食した。他に動物がいても、好みの動物だけを求めて長い旅に出たりすることが、ネコ科動物にはあるらしい。
  ライオン・チーターとも新生児の死亡率は高いのだが、ヒョウもまたごたぶんにもれず1〜6頭生まれても最初の数日のうちに多くが死んでしまい、通常死体は母親に食われてしまう。これは死体が臭って、他の動物に子供達がいる場所を知られないようにするためと考えられ、乾燥していて死体がすみやかに干上がり、腐臭を出さない地方ではそのままにされることもある。子供のうち生き残るのは1〜3頭である。
  ヒョウが獲物をライオン・ハイエナやハゲワシ等他の動物に横取りされないよう木の上まで持ち上げることは良く知られている。落ち着いたらまず、獲物のお腹をきれいになめ続け、毛がすっかり抜けた部分ができる。ヒョウの舌はとてもざらついているのだ。次にガブリとお腹を裂く。のどが乾いている時(と思われるのだが)にはまず胃内容物を食うが、そうでない場合は胸→肩→前足とゆーふうに食べていく。そして再び後半身へ移る。ヒョウは食事の際にもそのきれいな毛皮が汚れないよう注意を払っているようだ。目立ちたくないんだろう。獲物をバラバラにしちゃうようなことは避けるようで、食事(数日に分けられることもあるが)が終了した獲物は中身のない皮だけとなってしまう。


(6)  キリン
  1827年、パリに黒山のような人だかりが出来た。ヨーロッパに初めてキリンが連れて来られたのだ。看板にはギリシャ語のキャメロパルダリス(Camelopardarilis)と書かれていた。ギリシャ人はキリンを見てラクダ(Camel)とヒョウ(Leopard)が交雑してできた動物と考えたのだ。その呼称は学名Giraffa camelopardalisとして今も生きている。
   それに先立つ1414年、ケニアのおそらくは海岸地方から中国皇帝のもとにキリンが届けられ、中国の人々はそれを世の中に善と調和をもたらす伝説上の動物『麒麟』と考えたのだ。
  キリンは8つの亜種がいると考えられており、日本で良くみられる(もちろん動物園で)のはアミメキリンだ。ケニアにはアミメキリンの他にウガンダキリンとマサイキリンとがいて、中でもマサイキリンが最もポピュラーで星型のようなあるいは絞り染め模様のようなギザギザした模様をもっている。この模様はシマウマの縞と同様、1頭ずつ異なるので研究者はこれを個体識別のために用いる。
  キリンはその背の高さを利用して、もっぱら高いところにある木の葉を食べるが、オスは首を伸ばしてさらに口先も伸ばして高い所のものを食べるのに対して、メスは見おろすような場所にある葉を食べる。したがって食べている時(1日の半分は食べている!)は、遠くからみても大体オス・メスの区別をつけることができる。
  忘れもしない。僕が初めてケニアに来て、最初に見た大型野生動物がキリンだった。ナイロビから北のナイバシャ湖へ向かう幹線道路に、「動物横断、注意!」という標識が出ていて、さすがアフリカと感心していると、スローモーションのような優雅さでキリンが駆け抜けて行った。スローモーションのような...と書いたけど、キリンは最高時速60km/h位で走れる。おとなのキリンを襲えるのは、ライオンぐらいだけど、キリンの最高時速には追いつけない。また、キリンの前足のキックの力は強く、そのどんぶりもの大きさのひづめで蹴られたら、ライオンすら殺されてしまうことがある。キリンにとって最も危ないのは水を飲んでいる時、両前足を広げて首を水面に近づけている時だ。ライオンはキリンの鼻づらを咬んで、窒息死させてしまう。また、背中に乗っかって首の骨を折って殺すこともあるが、とにかくキリンの狩りはライオンにとっても命がけである。
  キリンは多くの場合、群れでみられるが、ゾウや他の社会性動物のようにしっかりしたつながりで結びつけられているのではなく、その構成はかなりルーズである。いろんな個体が出たり入ったりするのである。ま、集まってた方がライオンのような肉食獣に対し、効率よく見張ることができると考えられるのだけれども、実は群れの中の1頭が遠くにライオンを発見してもブーブーという鼻声(警戒音!?キリンはあまり声を出さない)を出すこともあれば出さないこともあるのだ。また、誰かがブーブーと音を出しても他の個体がそれに反応することもしないこともあるのだ。群れでいれば、ライオンたりともめったに襲えない、とたかをくくっているのだろうか。
  水を飲んだりして頭を下ろしている姿勢から急に首を持ち上げたりして、よく(頭の血が下がって)卒倒しないものだと長い間研究者の疑問だった。これは血管の中に弁があって、うまく調節されるようになっている。
  2頭のキリンが並んで立って、交互に首をブルーンと回して、相手の首にぶつけ合っているシーンを見ることがある。30分くらい続いた後、一方が相手の後ろにまたがって交尾の姿勢をとるので、この『ネッキング』はオスとメスとの間のほほえましい行動と思われがちである。しかし、これは実は両方ともオスでお互いの力の強さを比べあっているのだ。力の劣っている方が相手にまたがらせるとゆうのは他の哺乳類でも見られる行動だ。
  ナイロビ郊外のナイロビ国立公園でもキリンはほとんどいつでも見ることができる。ここでのキリンの好物はアカシアの木の葉なのだが中でもホィッスリング・ソーン(笛の鳴るとげの木という意味)が好んで食べられる。このアカシアの木はつまようじにすると歯ぐきから出血してしまうほど、鋭くて丈夫なとげを持っているのだが、キリンは長い舌とよく動く唇で、上手に葉や若芽をつまんでしまう。しかし、木もだまって食べられてはいない。この木にはアリを呼び寄せる蜜があり、アリは黒くて大きな虫こぶを作る。この虫こぶに穴があき、 風が吹くと、ちょうど空ビンの口に息を吹きかけた時のような音がする。それで笛の音のする木という訳だ。この木自体はあまり背が高くなくせいぜい2〜3mだが、とにかくキリンが葉を食べているとアリがワッシワシと寄ってくる。そしてこのアリは刺すのである。てなわけで、一本の木が集中的に食べつくされてしまう前に、キリンは次の木へと移動することになる。
  キリンはそのエレガントさからか、多くの部族から敬意を払われてきた。しかし、近年ではそのしっぽのふさが幸福のお守りになったり、ハエたたきになったり(その本来の持ち主にとっての生前の役割も、ツエツエバエを追うことだった)、観光客用のブレスレットになったりして、キリンを殺ししっぽを引っこ抜く(象牙やサイ角よりは取り去り易い)という密猟も行われてきた。また、肉や皮も求められてきた。キリンはまだ全体として数は多い。けれど、人間の攻撃の前には全く無防備なのである。


(7)  シマウマ
 ふつうシマウマと呼ばれている動物には大きく分けると3種類ある。ケニアをはじめとする東アフリカの草原やサバンナでよく見かけられるのはサバンナシマウマ(あるいはヘイゲンシマウマ、コモンシマウマ)である。ケニアの北部へ行ってサンブルー国立保護区へ行くとサバンナシマウマよりずっと縞の幅が狭くおなかの白いグレービーシマウマがいる。見た目としてはグレービーシマウマの方が美しいと思う。そのせいかグレービーシマウマはその数も少なく、エチオピア・ソマリア・北ケニアに1〜2万頭生息しているのみである。毛皮が高く売れるのである。もう1種は南西アフリカにいるヤマシマウマと呼ばれるものでこれは僕もまだ見たことがない。
 かつて南アフリカにはクァッガという美しいシマウマがいた。これは黄褐色の体の前半分にだけ縞のあるシマウマだったが、19世紀の終わりに絶滅してしまった。これも毛皮のために多くのハンター達によって撃ち殺されてしまったのだ。
日本人研究者によるアフリカにおける霊長類以外の野生動物の研究はとても数が少ないのだが、かって京都大学の大沢氏が北ケニアのサンブルー地域でサバンナシマウマとグレービーシマウマの社会構造を比較研究したことがある。サバンナシマウマは1頭のオスと複数のメスによるハーレムが生涯維持されるが、グレービーシマウマでは時に成獣が一時的な集まりを作るだけである。実は同じシマウマと行ってもグレービーシマウマとサバンナシマウマは類縁的には、それぞれと他のウマやロバと同じくらい遠いのだ。現在では、全てのウマ科の先祖はおそらく縞を持っていたものと思われており、一本指(ひづめにおおわれた足の第3指のみが発達、体重を支えている)になったウマの系統から最初に枝分かれしたのはグレービーシマウマと考えられている。
 ウマ科の動物はウシ科やシカ科の動物と違って反すうをしない。そのため質のいい、繊維質の少ない植物を好んで食べる。
 かって僕の行っていたメルー国立公園に野火があり、草原が広く焼けて真っ黒焦げになってしまった。最初にやってきたのはハゲコウ(頭のはげたコウノトリ)で、焼け死んだトカゲやネズミなどの小動物を食べに集まってきたのだった。数日するとシマウマがそこかしこに見られた。新しく成長してきた若い芽を食べに来たのだ。
 シマウマの縞は、草原でカムフラージュに役立っているという説がかつて有力であった。しかし、それならば彼らは草丈の高いところでバラバラになっているはずだ。実際には開けたところで群れを作っており、かなりその縞は目立つ。最近の学説は、ウマ類に特徴的な相互の毛づくろいと関連して、シマウマをお互いに引き付けるのに役立っていると考えている。縞に囲まれていると安心するのだ。縞の視覚的効果によって社会的結合が強化されていると考えているのだ。


(8)   ブチハイエナ
  腐肉を食べる動物(スカベンジャー)と言われるブチハイエナは実は優秀なハンターでもある...などという記事の書き出しに何度お目にかかったか知れない。今やハイエナの狩りについて知らない動物好き(?)はいないと思われるほど、このことは月並みな事実となってしまった。しかし、ブチハイエナはじめハイエナ達が優れたスカベンジャーであることは間違いがない。
  ハイエナ科には4種のハイエナが属しており、シロアリを主食とするアードウルフ(ツチオオカミ)を除く、ブチハイエナ・シマハイエナ。・カッショクハイエナは腐肉食屋である。南部アフリカに生息するカッショクハイエナ、東アフリカから北アフリカ〜インドにかけて分布しているシマハイエナとは共にその数が少なくなっており、シマハイエナの亜種バーバリハイエナはアルジェリア・モロッコ・チュニジアに分布しているが絶滅の危機にある。そしてカッショクハイエナも注意を要する状況にあるとされている。イヌ類に似ているが、分類的にはジャコウネコやマングースの仲間に近い。
  古代エジプトでは飼い慣らされて、時には食用にされたと言われる。エチオピアの首都アジスアベバから戻った友人が言っていた「いやあ、町中をうろついているのが犬だと思っていたら良く見てみるとハイエナなんだ。びっくりしたよ。」観光パンフレットによると飼い慣らされたハイエナのショウをやっている場所があるとか。
  ケニアで最も野生動物が多い所とされてるマサイマラ国立保護区のこれまた有名なキーコロック=ロッジの近くにハイエナの巣があった。巣穴の中からハイエナの子供が外を覗いていたり、親子で巣穴の前で日向ぼっこをしたりしていた。しかし、不幸なことにロッジの近くゆえ、多くの観光カーが巣穴のまわりに群がっていた。あのハイエナの家族は今もあそこにいるのだろうか?
  夜聞くブチハイエナの鳴き声は実に不気味である。甲高い笑い声のようなその鳴き声から、ブチハイエナは「笑いハイエナ」と呼ばれることもあり、様々な伝説を生んだ。ある人類学者によるとアフリカの神話伝承の中でよく登場する動物ベスト3の一つだそうだ。他の二つは何とウサギとクモだとか。
  ブチハイエナは他の多くの哺乳動物と異なり、メスがオスより体も大きく優位にたっている。また、メスはオスのおちんちんそっくりのものを持っていて、チンパンジー研究で有名なジェーン・グドー女史も、男性名をつけていたブチハイエナが、赤ん坊を産んでしまったと嘆いていたとか。
  ブチハイエナはよく群れで狩りをする。夜、うっかり外で寝ていてハイエナに食い殺されるという悲惨な事件も時々ある。丈夫な顎と消化器で骨も有機成分まで消化されてしまうから恐ろしい。スーダン南部のある村が内戦によって孤立してしまい、戦死した人間の肉に慣れたブチハイエナが夜な夜な病院の壊れた窓から侵入、動けない病人を食い殺しているというホラー映画より恐いニュースを聞いたことがある。マサイマラで見た子供のブチハイエナはとってもかわいかったんだけどもね。


(9)   イボイノシシ
  今回紹介するのはサバンナの愛敬者、イボイノシシ。アフリカには他に2種のイノシシの仲間がいる。カワイノシシとモリイノシシである。実は両者とも顔にイボがあるので話は少々ややこしい。カワイノシシはその名の通り、川が近くにあるような湿気の多い木の点々とはえるサバンナに主としていて、森やサバンナ草原にも出現する。昼夜ともに活動する。
  チンパンジーの森、タンザニアのマハレ国立公園にいたときは日中イボイノシシが歩き回り、夕方から夜にはカワイノシシが出現していた。そこではカワイノシシは赤茶色で、顔と立て髪に白い模様が付いていて、イボイノシシとは区別しやすかった。
  モリイノシシは体毛は茶色から黒で体中剛毛がはえ、体も他の2種に比べずっと大きい。
  イボイノシシのイボは3対あって、大きなのが目の下、目と牙の間に1組ずつある。小さなイボがあごの近くにあるが、これはメスには見られないこともある。
 一般の人々や、時にはサファリ・ガイドが言うことで、必ずしも正しくないことがある。・.イボイノシシは食物を掘り起こすのに、主としてその鋭い牙を使う。・.イボイノシシはライオン等の肉食獣に追われるとすぐに穴の中に逃げ込む。・.2頭の大きなイボイノシシと子供達がいたら、それは父親・母親とその子供達である。
  まず、イボイノシシは食物を掘り起こすのにその鼻先を使うことが多い。草地でよく前足の膝を地面に付けた格好で草を食べているのを見る。主としてイネ科の草を食べている。
  また、イボイノシシは穴に逃げ込むこともあるが、通常は走って逃げ、近くに穴があってもそこに避難しないことが多い。イボイノシシは最高時速50qで走ることが可能である。ライオンは穴をくずすことができるし、イボイノシシは古くなって土が固くなった穴を好まないのだ。穴に逃げ込むこともあって、そんな時には顔を外に向けその牙を防御に用いる。
  サバンナで見かける愉快な光景として、大人のイボイノシシが2頭、そしてその後に子供達が数頭続いて、全員先にふさの付いたしっぽを立てて旗のようになびかせて、一列になってスタコラと走っているシーンを見ることがある。オスのイボイノシシは交尾期以外は離れている。母親とその子供達に、子供を連れた他のメスが加わることが良くあるため、両親と思われてきたのだろう。
  豚の仲間の中では、イボイノシシだけが乾燥した地域にも生活できる。成獣は体温が34〜41℃と変化することもあり、これはラクダや砂漠に住むガゼルのように、乾燥への適応と考えられる。通常の体温より高い気温に耐えて、体内の水分を節約しているのだろう。水があるときには、もちろん定期的に飲むし、泥の中でぬたうち回って体に付いている寄生虫を取る。こんな時イボイノシシはいかにも気持ち良さそうだ。
  乾燥地帯では夜の気温は結構下がるので、寝るときは体温を保つため穴の中にはいる。自分らで穴を掘ることも出来るんだが、たいていはツチブタの掘った穴を使う。
  イボイノシシのメスに乳頭は2組、計4つしかなく、豚のように多産ではない。生まれたこども達は自分の吸う乳頭の場所が決まっている。交尾期に、オスはメスを求めて戦う。額と額をぶつけ合って力比べをするのだが、この時大きなイボが相手の牙から顔を守るのに役立っているようだ。この戦いにおいて、時には大怪我で出血を伴うこともあるとある本には書いてあったが、研究者は血を見ることは滅多にないと言っていた。
  アフリカの3種のイノシシはアフリカ産豚コレラのウイルスを持っていても、自分達は病気にならない。しかし、ダニが媒介すると家畜の豚はこの病気になってしまう。また、眠り病を媒介するツェツェバエの吸血源ともなっているため、アフリカ各地でイノシシ類撲滅作戦が展開された。
  マハレで日中涼んでいると、イボイノシシが僕の足にぶつかったことがある。僕も向こうもびっくりしてしまった。ここら辺はイスラム教徒が多く、豚の仲間は殺さないので、イボイノシシがすっかり人に慣れてしまい、人がすぐそばにいても平気で採食するのである。


(10) カバ
  ケニア滞在中の正月、僕は日本から来たカメラマンの宮嶋さんと一緒にアンボセリ国立公園へ行った。今回の取材は『文芸春秋』に連載するゴリラの記事のためだったが、その帰りにケニアに立ち寄られたのだ。宮嶋さんはこれまで『朝日ジャーナル』に日本の動物園のカバについての連載を書いていた。「ケニアにカバをやっている研究者はいないだろうか」と尋ねられたが、残念ながら前にカバの研究をしていた人間はすでに帰国していた。
  しかし、カバはかってアフリカ各国で増えすぎたと判断され、あちこちで間引かれたため、それなりに生態についても分かってきている。
 前にザンビアの南ルアングワ国立公園で夜間サファリとゆーものをやった。夜、クルマに乗ってサファリをするのである。雷光であたりが明るく照らし出された時に、道路上に出現した濡れた巨体の赤い目をしたカバが、今でも目に焼きついている。昼間、水の中でのんびり昼寝をしているカバはのほほんとして、ほほえましいが、夜のカバは危険である。
  ケニアの西にあるビクトリア湖周辺では時々、人がカバに踏み殺されている。カバの通り道と知らずに寝てしまった者もいるだろうが、カバと彼らの避難場所である水場との間にうっかり立ってしまって襲われることもあるのだ。あの2〜3トンもある体でチャージされたらたまったもんではない。
 カバの採食は夜間の5〜6時間の間に集中して行われ、食べるものはほとんど陸上の植物である。一晩にカバが必要とする食物はだいたい40s程度で、これは体重当りに換算するとどちらかとゆうと少ない。これは他の時間の大部分水中でじっとしているため、エネルギー消費量が少ないのだと考えられている。
  カバは大体が陸上か浅い水辺で出産する。たまには水中出産をすることもあるが、生まれた子供はおぼれないよう自力で浮上しなくてはならない。
  カバが威嚇のディスプレーとして、口を大きく開けたり、糞をまき散らすことはよく知られている。また、突進も行い、のどかな昼寝の最中に、突然1頭が突進をして水しぶきをあげ見物している観光客を驚かすことがある。
  カバは皮膚からピンク色の液体を分泌し、かっては血の汗をかくと言われた。この液体は日光から皮膚を保護し、また細菌の感染を防ぐ働きも持っていると考えられている。その代わり、一般的に他の動物の持つ皮脂腺や汗腺がない。カバの体色のピンク色はこの液体の色素が沈着してできるものと考えられる。
  カバの皮膚は分厚いが、その表面にある角質層はきわめて薄く、乾燥した所では人間の3〜5倍も早く水分を失っていまう。したがって日中は湿気が多いか水のある所にしか生活できないのである。


(11) ナイルワニ
   19'90年10月のことだが、札幌市内のホテルでワニ肉料理が食べられるという話を聞いた。ワニを養殖してその皮や肉を市場に出すというのは、世界中で行われていて、フィリピンへは日本から専門家(ワニの専門家ではないと思われるが)が行って養殖技術の提供をしていると聞く。僕もナイロビ郊外の焼肉レストラン『カーニボァ』(肉食獣の意味。この単語を知らないためか、日本語のガイドブックにはよく「カーニバル」と誤って記述されている)でワニの肉を食べた。アフリカでもいろんな肉を食べちゃったけど、ナマズとワニはうまかった。ワニは鳥のささみのような淡泊な味だ。
  ケニアの港町モンバサでは大規模なワニの養殖場があり、1000頭ものワニが飼われていてちょっとした観光名所になっている。これはマンバ・ヴィレッジと呼ばれるもので、マンバとはスワヒリ語でワニのことだ。1984年に650頭のワニとモンバサの東にあるタナ川沿いで集められた700個の卵でスタートされた。現在では1カ月に100頭のワニを輸出する能力があり、年間ワニ皮から3500万円、生きたワニの輸出からさらに1400万円の利益をあげている。
  1988年2月、タナ川で少なくとも5人の人命と数え切れないヤギの命を奪った大きなワニ、俗称『ビッグ・ダディ』が罠によって捕らえられ、この養殖場に運ばれた。長さ4.5m、重さ約1トンあり、人々は100歳以上生きた奴だと言う。年齢の方はちょっとオーバーだと思われるが、1カ月の餌代だけで21万円かかる。1500sの鶏肉・牛肉・魚を供給しなくてはならないのだ。

   さて、野生のワニはやはりちょっとおっかない存在である。ワニがいるような湖や川には「ワニに注意!」の看板がよく見られる。ユーモラスなものもあって、看板の裏、つまりワニの棲む水辺から見られる側にはワニに見せるようにして「人間に注意!」と書いてあったりする。また、看板に「ここでは水泳可能」とあって、その下に「ただしワニが許せばだが」と付け加えてあるのもある。
   ワニによって殺される人の数は毎年かなりの数におよぶ。ケニアではワニによって殺される人間は他のどんな動物によって殺されるのより多いと言われる。しかし実際のところ川や湖の周りで行方不明になった人はワニに襲われたのか、足を滑らせて溺れたのかはっきりしないことが多い。目撃者でもいればいいが、死体が見つからない場合が多いのである。タナ川のある地域では年間約50人がワニによって殺されると言われている。科学的根拠はあまりなさそうではあるが、タナ川には約2万匹のワニがいると主張されている。
  1986年5月、川で母親がワニに襲われ、6才の娘は持っていた空のジェリ缶(水やガソリンを入れる鉄製の20g缶)を投げた。ジェリ缶は母親にぶつかってしまったが、ワニはより簡単な獲物と思ったのか、母親を放し、ジェリ缶をくわえて下流へ消えた。87年11月、川に水を汲みに行った48才の婦人がワニに水中に引きずり込まれた。89年1月、田んぼの草刈をしていた中年の婦人がやはりワニによって水中に引きずり込まれた。
  一方、タナ川と並んでワニによる人身被害の多いビクトリア湖畔では話がもう少し複雑になる。この地域のルオー族の中にはワニにまつわるいろいろな言伝えがあり、ワニを殺したらその霊に取り付かれると信じている人々もいるのだ。ゲーム・レンジャーの中にもそんな人間がいて、ワニを射殺することを拒む。こんな話がある。ある白人の牧師が、ワニを射殺した。しかし、夜になると人々が殺されたワニの霊を弔うため集まって来て、牧師を恐怖に陥れた。この事件の後、牧師はこの地を離れざるを得なかった。

  アフリカにはアフリカクチナガワニやコビトワニも西アフリカにいるが、これまでの話の中のワニは一般的なナイルワニだ。ナイルワニは6m位になることもある。15mなんちゅう話もあるが、誇張であろう。最もワニの祖先は9000万年前にはそれ位の長さがあったらしい。爬虫類であるから、体温は25℃位から若干上下する。
  日中は川辺の砂地等の上でひなたぼっこをしていることが多い。こんな時には大きく開いた口の中を鳥が突っついていることがある。ツメバゲリやナイルチドリ(ワニチドリ*)が口の中からヒルを採食しているのだ。鳥達はまた侵入者がいると警告するという見張りの役目も果たしている。
  通常は魚や軟体動物(貝やカタツムリ等)や甲殻類を食べているが、大きな動物も水中に引きずり込んで溺れさせてしまう。大きな動物は通常腐らせてから消費されるが、ゾウの足にかみついて、身体を回転させて引きちぎってしまうなんてこともある。時にはワニ同士の共食いもあると言われる。

  東アフリカでワニが数多く見られる所としては、ウガンダのマーチソン滝国立公園とケニアのトゥルカナ湖が有名だ。マーチソン滝国立公園は北半分がゲリラ活動のために封鎖されていて、ワニの状態はどうなっているか分からない。トゥルカナ湖では水が少しアルカリ性で、ワニ皮の商品価値を低めているからであろう、まだ数多くのワニが見られる。
  最近はケニア以外のアフリカ諸国でも養殖が進められており、野生での繁殖状況も良いとの判断で、ワシントン条約の規制も緩和の方向に向かっている。ちなみに1990年のワニの輸出割当量はエチオピア6870頭、ケニア5000、タンザニア3500、ソマリア500、スーダン5040(貯蔵されているもの)でジンバブェ・ボツワナ・マラウィ・モザンビーク・ザンビアには輸出制限はない。ワシントン条約によってワニとヒョウの保護には一応の効果がもたらされたと言うことができる。一方、サイとゾウの保護には期待されたほどの成果をあげることができなかった。ここら辺の原因に関しては検討に値するであろう。

  トゥルカナ湖での調査では、繁殖期は11月にピークとなり、月の終わりごろにはメスワニが作った巣が岸辺のあちこちに見られるようになる。トゥルカナ湖周辺では岸から5〜6mのところに深さ20〜50cmの穴が掘られる。平均33個の卵が産みつけられ、砂と草をかぶせた後、母親はしっぽでそこを固める。若いメスの産卵数は少ない傾向にあり、40才以上のメスが最も多くの卵を生む。ナイルワニはおそらく70〜80年生きることが可能だろうと言われ、メスは19才くらいで性的成熟に達すると言われる。
 産卵後メスは巣のそばからあまり離れずにいて、卵を守ろうとする。しかしながら、卵の間、そして孵化後まだ小さい段階のワニには多くの天敵がいる。良く知られるのはナイルオオトカゲである。オオトカゲが巣を発見し暴いていると、アフリカハゲコウ、オニアオサギ、アフリカクロトキやカラスの仲間がやって来て卵を食べてしまう。

     * 分布は南スーダン、エチオピア、北ウガンダとそれほど広くない。


(12) チンパンジー
 朝、鳥の声とともに月覚める。食後のコーヒーを飲んでいると、タンザニア人の助手がやって来た。ここはタンザニアの西にあるマハレ山塊国立公園。僕は日本政府から派遣されて1年間、ここに住むチンパンジーの暮らしを守るための仕事をしていた。野生動物を守るためには、まずその暮らしぶりを知らなくてはならない。「トゥエンデ〔さあでかけよう)」。僕は助手と共に山道を歩き始めた。汗をかきかき、しばらく歩いていると突然、「ウーフ、ウーフ、ウヒャホゥー!!」チンパンジーの叫び声が聞こえた。チンパンジーは想像以上にやかましい連中なので、近くにいる時はたいていその声で居場所がわかる。でも、今日はいつもとちょっと様子が違うようだ。とにかくうるさい。何かに興奮しているようだ。急ぎ足で山道を進むと、チンパンジーの群れにでっくわした。あたりの木々の上に黒い影が踊る。何頭もが一度に叫び声をあげている。その中で数頭が一箇所にかたまっているのを見つけた。「ワメパタ ニャマ(肉を手に入れたネ)」助手が僕にそう告げた。見ると体の一番大きなボスチンパンジーが手に何かつかんでいる。アカコロブスという小型のサルの死体だ。それをちぎっては食べている(チンパンジーは腕力が強い)。ボスのまわりに他のチンパンジーも集まってきておすそわけをねだる。肉は彼らにとって大好物のごちそうなのだ。
 チンパンジーはふだんは果実や葉っぱなどを食べているが、時には数頭で小型のサルなんかをひっつかまえて肉食をする。また、木の枝やつるを細くして蟻の巣穴に突っ込み、くっついてきた蟻を食べることもある。これはチンパンジーが道具を使用する例として良く知られている。チンパンジーは人間に近いくらい長生きをする。マハレでの最年長は40才を越えていると思われる。だから彼らについて研究をするのにも長い年月を必要とする。チンパンジーは人間に最も近い霊艮類と言われ、とても賢い。アメリカではチンパンジーに手話を教えて知能を調べる研究が行われている。
 チンパンジーの子供は5才位まで母親と一緒にいる。すこし離れて動きまわるようになっても、ちょっと驚いたりするとすぐに母親にしがみっく。人問の子供と一緒である。チンパンジーの子供もよく子供どうしで遊ぶ。でんぐり返しをしたり、レスリング(?)をしたりと見ていて飽きない。こんな可愛い子供たちをつかまえて高く売りとばそうとする人達もいる。医学の実験用や個人のペットとして売られているようだ。日本でも400万円くらいの値段がつけられる。
 国際的な取決め*で、研究用(これも許可されたものだけ)以外では売買は禁止されているにもかかわらず、だ。密猟者は売りとばしやすい子供チンプを捕らえるために、まずその母親を殺してしまう。そうして孤児になったチンブも狭い箱に閉じ込められて長い距離を国から国へと運ばれている間に、多くが死んでしまう。
 日本のチンパンジー研究者が中心となってチンパンジーを守るために、日本からも長年タンザニアに援助が行われてきた。チンパンジー達の安住の地が末永く守られるよう僕遠も努力しなければならない。

   *ワシントン条約。正式名称は「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」。1973年にワシントンで採択され1975年から発効、
     当時はオーストラリア、フランス、イタリア、英国、アメリカ合衆国等96ケ国が締結国となっていた。
    日本は1973年に条約に署名したが、国会で承認され発効したのは1980年になってから。

    シロアリつり:道具使用として有名な行動。シロアリが地表近くに集まる羽化のころをねらい、適当な張りとしなやかさをもったつる植物の樹皮や
    草の茎をアリ塚の穴に入れ、アリをつり上げる(Newtonより)


マハレ山塊国立公園
  〜タンザニア野生動物調査官として



 1987年現在、タンザニア政府天然資源観光省野生生物局所属の野生動物調査官という堅苦しい肩書で働いている。タンザニア政府に直接雇われているのではなく、日本のODA(海外開発援助)の一環として国際協力事業団(現国際協力機構JICA)からタンザニア政府に派遣されている。仕事は有名なセレンゲティ国立公園にある「セレンゲティ野生生物研究所」の附属機関のひとつである、「マハレ山塊野生生物研究センター」で調査及び公園管理業務に協力することである。当研究センターは1985年6月14日にタンザニア第11番目の国立公園として指定された、マハレ山塊国立公園(Mahale Mountains National Park)内に位置している。研究センターには、20名程のタンザニア人スタッフがいるが、その大部分は現地語とスワヒリ語しか喋れないトングウェ族の人々である。彼らはもう20年来にわたって日本のチンパンジー研究を手伝ってくれた人々である。
 国立公園自体は1600平方キロの面積があり、1000頭前後の野生チンパンジーが生息していると推定されている。しかし、最新の生息密度、分布状況等に関する情報は少ない。公園全体が険しい山や密な植生に覆われているためである。そのためもあって、国立公園と言っても陸路で公園にアクセスする道路もなく、近隣のキゴマの町からタンガニーカ湖内を移動する大型汽船に乗って、公園に近づいたらボートでピックアップしてもらうというのが一般的な到着方法だ。当然ながら事前のアレンジなしではたどり着けない。一方で、不法居住者も多く、周辺では森林伐採が進み、チンパンジー自体の密猟もあると言われ、決してマハレ国立公園の野生動物の安全は保証されているとは言えない状況にあった。
 タンザニアは当時経済状態の悪化から、自国の力だけではその野生動物保護管理の資金を賄いきれないとし、その多くを海外からの援助に頼っていた。例えば、ドイツ(この頃はまだ西ドイツと呼ばれていた)のフランクフルト動物学協会は夕ンザニア国立公園公社を全面的に支援している。協会会長を務めていた動物学者グジメク博士はセレンゲティ国立公園にて調査中、息子を飛行機事故で失ったが、博士自身も1987年2月にドイツで亡くなり、息子共々ゴロンゴロ・クレーター外輪山に眠ることになった。道路網整備、標識や監視小屋の設置が協会の資金援助によって進められている。
 しかし、それでも不備な点がタンザニアには多い。5万平方キロの面積を誇るセルー動物保護区では密猟のためゾウ、クロサイの減少が著しい。タンザニア最大の国立公園セレンゲティ国立公園(約1万5000平方キロ、四国より少し狭いほど)の次に広いルアハ国立公園*では、この2年間パトロールのためのブーツが支給されていないし、頼れる四輪駆動車はWWFから寄贈された1台だけであった。3台ある無線機もワシントンD.C.に本部を持つアフリカ野生動物財団からのものである。
 そんな中、マハレ国立公園は日本のODAによる支援が開始されて、10年目にして国立公園となった。しかしその中身はまだまだ整備されておらず、観光客用の宿泊施設すら満足にない。しかも、マハレ計画は日本が政府間レベルでおこなっている唯一の国際的な自然保護援助である。問題はこれからである。
 僕はいま、ミシガン大学から来たアメリカ人研究者、そしてタンザニアのダルエスサラーム大学を出たタンザニア人研究者と一緒に生活しながら今後の方針を探っている。一人の力で出来ることは少ないが、マハレがタンザニアの誇れる国立公園になるよう努力したい。

   * 2008年にウサング動物保護区等と合併し、東アフリカ最大の国立公園(2万平方キロ超え)となった。

                                            1987年9月記

マハレ山塊国立公園(2)

 マハレ山塊国立公園に、多くの日本人がやってきた。まず東大の西田利貞氏、札幌大の上原重男氏をはじめとするチンパンジーの調査隊がやってきて、調査を続けている。次に、TBSの「わくわく動物ランド」の撮影班がやってきた。彼らが撮影にはいると同時に、チンパンジーの群は遙か南へ移動してしまい、スタッフにとっては苦しい取材となった。おりしも、マハレ地区は雨期に入り、公園スタッフ・調査隊・撮影班・観光客とボートに乗って南へ移動、道なき山を延々と登って、チンパンジーをろくに見れず、どしゃぶりにでくわしてトボトボ帰るなんて日もあった。それでも、チンパンジーがオオガラゴやジヤコウネコを捕まえて食べているところを撮影できた(はずだ)。また、調査基地の近くにも、南への大移動に参加しなかった母子等が残っており、チンパンジーの親子の活動もかなり長い間追えている。ただ、1ヶ月近い撮影の間撮影の便宜を図るため、チンパンジーの個体追跡は何度も中止せざるを得なく、研究者のフィールドノートのベージが進まなかったようだ。
 次にやってきたのは、朝日新聞の取材班。今度はチンパンジー達が、その遊動域の北の端まで行ってしまった。歩き進むうちに、カメラマンがへたり込んでしまった。皮肉なことに、2日後にはチンパンジー達の方が調査基地の方まで戻ってきて、サンダルばきのままでも撮影することが出来た。
 こうした取材によってマハレの知名度が少しでも上がり、訪れる観光客が増えることはタンザニア政府にとっても望ましいことである。日本の勧告に従って、この地区を国立公園にした政府はその維持管理のためにも外貨を必要としている。しかし、一方で常に多くの観光客がチンパンジーを追い回すという事態は、チンパンジーにとってもそれを調べる研究者にとってもあまり望ましいものではない。将来的には観光客と保護・研究の調整を図るための方針が打ち出されなくてはならない。
 早いもので、僕がマハレの仕事を始めて半年が過ぎた。僕は日本政府のお金でタンザニアの野生生物保護のために、タンザニア政府の役人として働くという立場にいる。しかし、どうしても手が出せない問題もある。警察権の行使がそのひとつだ。マハレが2年半前に国立公園になってからも、人々が主としてタンガニーカ湖の豊富な魚を求めて、公園内に侵入してきては住み始めてしまう。いわゆる不法居住者である。タンザニア人の公園スタッフとパトロールをした時に、公園スタッフが不法居住者の家を発見し、立ち退きを命ずる。スタッフが彼らの家に火をつけて焼き払う。燃え上がる家を見ながら、僕は離れてただ黙って見ているしかない。
 警察権の行使と言えば、密猟者の逮捕もそうである。今年、タンザニアの新聞ではチンパンジーの密猟問題がホットな話題となった。マハレではその可能性は小さいと思われる。と言うのは、少なくとも今までのところ研究者がチンパンジーを個体識別して観察を続けているし、人慣れしていないチンブは捕まえるのが簡単ではないからだ。従って、ここマハレでは小動物用のワナを見つけることはあっても、密猟者とは(幸いにも)出会っていない。
 チンブの密輸もCITES(ワシントン条約)があり難しいだろう。しかし、マハレの北、ゴンベ・ストリーム国立公園にいった研究者の話では、モスクワ経田でオーストラリアヘ運ばれたチンブが発見されている。
 これまで僕はケニア、タンザニア、ザンビアでいくつかの国立公園とそこでの野生生物保護上の問題を見てきた。それらの問題点は、大きく3つに分けられる。政策上の方針の問題、地域住民との利害の問題、そして密猟の問題であり、上記したマハレの問題もそれぞれ対応させて考えることが出来る。駄ジャレっぽくなるがPolicy, PeopleそしてPoachingと3PのProblemsとゆ−ことになる。しかし、問題点を捜すことは難しいことではなく、それらの解決への道は遙かに険しく難しい。1外国人として何ができるか、を常日頃考えているわけだが、逆に外国人としてやってはいけないこともあると考える。警察察権の行使などは、外国人としてはできるだけ直接手を出さないようにすべきだと考えている。この微妙な問題については、別の機会に改めて触れてみたいと思う。

                                                                   1987年12月

 タンザニア国内で1986年に警察によって押収された密猟象牙の総額は20億円にのぼる。同年1月には、ベルギーの港アントワープでタンザニアから運ばれた8000万円相当の象牙(約9.5t)が発見され、11月には隣国ケニアの港モンバサで、やはりタンザニアから密輸された約5tの象牙が押収されている(注1)。タンザニア政府は1986年12月に一般業者による象牙の販売・輸出を禁止することにした。1ヶ月の猶予機関の後、売れ残った象牙と営業許可証はすべて政府に提出することとした。象牙は政府価格によって買い取られたのだが、これはもちろん闇ルートよりはるかに安く、差し出された象牙はわずか86.8kg、そして象牙製の彫刻や装身具106点であった。一方、87年5月までに各地で押収された象牙は総数2437本(注2)。これは明らかに氷山の一角にすぎない。タンク・ローリーが横転、運転手は死亡するという事故があった。警察が調べると、タンク内に格納用スペースが仕切られており、3トン近い象牙が隠されていた。
 国境の税関職員の中にも密猟者達に便宜を図り、警察によって逮捕される者がいる。密猟一密翰がかなり組織化されているものと考えられる。僕の上司に当たるセレンゲティ野生動物調査研究所のヒルジHirji教授の話では、政府野生動物局の役人の中にも、密猟団と手を組み、ゾウ集団の位置を指示したり、実際に取引に加担している者がいるとのことだ。
 最終的に、日本と香港がアフリカゾウの象牙の取引高の80%を輪入しているという事実は忘れないで欲しい。
 タンザニア国内で密猟された象牙の多くは、隣国ブルンジへ運ばれるという。ブルンジは昨年ワシントン条約に加盟したばかりである。タンザニア内でも西部地方にしか生息していないチンパンジーも、ブルンジで売買される。首都ブジュンブラのホテルに滞在していた観光客が、生きたままのチンパンジーを売りに来ている男を目撃している。子供のチンパンジーが1頭約60万円になっていると聞く。ここ、マハレ国立公園ではチンパンジー密猟の可能性は小さいが、公園の外のチンパンジーの状況に関しては情報がない。
 少しタンザニアを離れると、アフリカでのクロサイの最後の楽園と呼ばれるザンベジ川のジンバヴエ側では、いまもレンジャーと密猟者達の撃ち合いが続けられている。近代兵器で武装した密猟者に職務質問している余裕はない。「見つけ次第射殺せよ」とまことに物騒な作戦が、クロサイを守るために展開されている。密猟されたクロサイの角はザンビアへ渡り、これまたブルンジへ運ばれると言う。一度ブルンジへ行ってこの言で確かめたいと申し出たことがある。「No!」上司にあたるヒルジHirji教授は、「殺されたらどうする。政府題の協定で派遣されている者くこそんな真挑まさせられない」と言下につっぱねた。

(注1〉どちらも目的地はアラブ首長国連邦となっていた。アラブ首長国連邦はワシントン条約のメンバーであるが、象牙輸出入の規制をもうけていない。
(注2)現在、国際市場に出廻る象牙1本当たりの平均重量は7Kgとされるが、タンザニア国内の7件の押収された密猟象牙からの概算では、1本当たり約4.5Kgとなる。



 アフリカの地図を見て欲しい。ザンビアから空路で密輔品を運ぶのはさすがに危険が大きいだろう。すると、ザンビア国内を陸路で運び、タンガニーカ湖を通ってブルンジへ運んでいる可能性が高い。象牙、チンパンジー、サイ角、それらが僕の働いているマハレ国立公園の目と鼻の先(あるいは中)を通って運ばれているかも知れないのである。
 マハレ国立公園の中でも象牙をもった密猟者が逮捕されたことがある。中央政府から派遣されたエリート官僚はマハレの山々を歩き回ることを毛嫌いしている。仕方がない。片言のスワヒリ語を頼りに、僕は現地のスタッフ達と共にパトロールに出かける。今は雨期、ライオンやバッファローもいるのでライフルをかつがせる。雨ですっかり伸びきった茂みを蛮刀で切り開きながら、雨の中を何日も歩き回る。日が暮れても水場が見つからない日もある。ダラダラの汗をかいて休めば、吸血昆虫の群れが襲いかかる。蛇はほぼすべてを毒蛇だと考えて用心しなければならない。何日かぶりに湖畔へたどり着き、待ちくたびれた公園スタッフと共にボートに乗り込み、わが家(と言っても山小屋だが)への帰路につく。近くの村から米と豆、玉葱を運ぶ。先日、半年ぶりに生卵(あひるのだが)が手に入り、狂喜して「目玉焼き」を作って食べた。この仕事もうすぐ終わろうとしている。

                                                                   1988年4月記

再びマハレ

 1988年夏、環境庁(現在の環境省の前身)+JICAの調査団の一員として再びタンザニアを訪れた。メンバーは環境庁関係者が3名、京都大学の西田利貞先生、JICAの担当者、そして僕である。調査団の目的は、これまで霊長類研究者が主体となって行ってきたマハレ援助を、環境庁ベースで行えるようその背景調査をすることであった。JICA(国際協力事業団)といしては、これまでタンザニアの第11番目の国立公園マハレのための基礎調査は十分行ってきたとして、今後は公園管理のために援助を行いたいと考え、話を環境庁へもっていったのであった。僕は4月30日に帰国、連休中は野生動物保護管理事務所に泊まり込んで環境庁向けの報告書を作成した。5月12日、第1回目の会議が環境庁で開かれた。その席上、今回の調査団派遣が決められたのである。
 西田先生とJICA担当者の方は仕事の関係上前半のみで帰られたが、残りのメンバーはマハレヘ向かった。なんせタンザニアの国内便は欠航が相次ぎ(タンザニアに着いた我々は、数少ないボーイング737機のうち1機が火を吹いてもっか修理中であるという余りうれしくないニュースを聞かされた)、我々は、チャーター便でマハレに近いキゴマの町まで行くことにした。
 キゴマからタンガニーカ湖をボートで旅し、マハレの地に降り立つと、センタースタッフの子供たちが僕の名前を呼びながら集まって来た。中には鼻水を垂らしながら僕にすりよってくるものもいたが、思わずじい−んとなってしまった。幸いマハレでの短い滞在期間中でも毎日チンパンジー達は姿を見せてくれた。最初は山の中をえんえんと歩いてもなかなかチンパンジー達を見ることができず、人がお客さんを連れてせっかく久しぶりに戻ってきたのになんと愛想の悪い連中なんだろうと、半ばあきらめて小屋に戻ってお茶を飲んでいると、けたたましい声をあげながらチンパンジー達が小屋の前を通って行ったのだった。そのうえ、蟻釣りや交尾まで御披露の大サービスぶりであった。しかし、環境庁の人達にはやはりマハレの生活は大変なものに映ったようだ!
 マハレ以外においても、今後の方針について多くのタンザニア政府関係者と話し合った。土地天然資源観光省の新しい大臣はマハレのあるキゴマ州の出身であったため、マハレ援助について突っ込んだ話合いがもてた。
 アフリカにおいては欧米諸国による野生動物保護関係の援助が長い間行われ続けている。フランクフルト動物学協会は、毎年約40万ドルの援助をタンザニアで行っている。有名なセレンゲティ国立公園では、フランクフルトやニューヨーク動物学協会の資金によって、いろいろな研究プロジェクトが進められている。2年前からイタリアもタンザニア援助を検討し、今年はまず手始めに1350万ドル(約18億円)の援助が計画されている。日本からはマハレ援助が唯一のものである。しかし、環境庁は、今後マハレのみならずタンザニアの他の国立公園・動物保護区への援助協力を検討していく方針である。すでに来年度より2名の長期専門家を派遣することが予定されている。難しい問題は多いが、今後の日本の自然保護全体にとっても良い刺激になることを祈りたい。

                                                                              1988年10月記


(13) マウンテンゴリラ

 あの「エイリアン」や「ゴーストバスターズ」シリーズ(?)のシガニー・ウィーバー主演の映画『愛は露の彼方に』で、すっかりマウンテンゴリラの知名度は高まった。あの映画制作のためにハリウッドは1日約70万円をルワンダ政府に支払ったと言われる。今やゴリラツアーはルワンダにとっても大事な外貨を稼ぐスターである。
 僕はルワンダよりは少し安いザイールでマウンテンゴリラと対面した。それでも申し込みだけで一人1日100ドル(約15000円〕で、他に山小屋の宿泊費などがかかる。自炊である。現地のガイドをしてくれるレンジャー達は英語はまったくだめで、仏語はこっちが超カタコト、でもスワヒリ語が通じて助かった。
山道をえっちらおっちら・・・1時間もしないうちにまずゴリラのうんこを発見、そして遭遇!いやぁ…でかい。背中から腰にかけて自い毛の生えたシルバーバック(大人のオスゴリラ)がしゃがみ込んでいる。近くの草をボキッとへし折り、皮を剥いて茎の中を食べている。レンジャーが近づいていくと、突然ゴリラはレンジャーの腕をつかんで引っ張った。レンジャーは倒れ、引きずられた。驚いた。チンパンジーでは人間との直接接触はまず考えられない。ゴリラはテンパンジーよりおとなしいようで、肉食しない。子供のゴリラがレンジャーの肩に乗り、ゴロゴロ身体を回って遊び始めた。ほほえましいひとときだった。
 しかし、マウンテンゴリラをめぐる状況は決して楽観を許さない。全世界に、と言ってもザイール・ルワンダ・ウガンダの国境近くの山々に約400頭が残存しているのみなのだ。ゴリラ保護に命をかけたダイアン・フォシー博士を殺したのは誰か?そしてその動機は?
これらの謎は今もって解明されていない。僕はシガニ.一・ウィーバーがダイアン・フォシーを演じた映画自体は見ていないが、「ヴィルンガー・・ダイアン・フォシーの情熱」という本を読んだ。日本ではユーモラスな「犬になりたくなかった犬」「船になりたくなかった船」などの著作で知られるカナダの作家ファーレイ・モウワットの手になるもので、後半は大変な内容だった。WWFとアフリカ野生生物基金*のゴリラ・プロジェクトとルワンダ側、そしてゴリラ研究者達の一部の者たちが協力して(?)、ダイアン・フォシーをゴリラ保護から手を引かせようとしたその経過が生々しく描かれている。偏った書き方をされている部分もあるかも知れないが、自然保護という美しい目的も人間のエゴイズムが絡んでこんなにも醜い争いとなりうる、ということを示してくれる**。日本を代表してゴリラ研究者山極寿一氏がダイアン・フォシーの信頼を寄せられていた点が唯一の救いだ。

    *:African Widlife Foundation(AWF)、日本の窓口がアフリカ象救援基金としてオイコス事務所(環境雑誌「才イコス」発刊)内にある。
   **:もちろんWWFやAWFの活動全体が疑問視されたわけではない。どんな組椴の活動も結局はそれを実行するひとりひとりの人間によって
       良くも悪くもなるわけである。


 今回は、ナイロビをしばらく離れてウガンダ〜ルワンダ〜ザイールとサファリをして来たので、その報告を。
 ルワンダからギブ湖の脇を通ってザイールに入ると、国境の町ゴマがある。そして、その北にはアフリカでも最も古い国立公園の1つ、ヴィルンガ国立公園がある。ゴマにあるザイール自然保護局(Institut Zairois pour Conservation de la Nature、フランス語圏です。念のため。)のオフィスでひとり100ドル(!!)を支払い、マウンテンゴリラを見に行く。車で約4時間かかってジョンバヘ、そこから約15分斜面を登ったところに山小屋がある。ここで1泊して、翌日はガイドと共に出歩き。約1時間半でゴリラ発見。さすがに大きい。背中に白い毛のあるシルバーバック(オス)がガイドの腕をつかんで引きずり倒した。「遊んでいるだけさ」ともう1人のガイドが説明する。さらに、子供のゴリラもガイドの上に乗ったり、背中をたたいたりする。どうやら、これも観光客用のアトラクションとなっているようだ。チンパンジーでは考えられないことである。
 ゴリラを研究している山極寿一博士の紹介で、フランクフルト動物学協会より派遣されているコンラッド・アーベリング博士に会い、いろいろと話を伺った。同じ国立公園内でやはり観光資源化を目的として、チンパンジーの人付け(habituation)が進められている。それをわずか6ケ月で成功させたアネツト女史には国境を越えたルワンダ側で会った。オスの個体識別は比較的容易だが、メス、特に母子はシャイで顔を覚えるのが難しいとのことである。これはタンザニアのマハレでも同じである。
 ザイールと同じくウガンダでも、チンパンジーそしてマウンテンゴリラとローランドゴリラが生息しており、外貨獲得のための観光開発が進められている。ウガンダには4つの国立公園があるが、北部にある2つは今だに行われているゲリラ活動のためにほとんど開店休業の状態である。残る2つのうち、ムブロ湖は観光客尾宿泊施設がない。残る1つ、クイーン・エリザベス匿立公園へ出かけた。ジョージ湖とエドワード湖に望む美しい国立公園である。ウォーデンのオコンゴ氏から話を伺った。国立公園内のゾウは300頭にまで回復、昨年12月以来、銃による密猟は報告されていないとのことである。国立公園内で時折、現地の人々が歩いていたり自転車に乗っていたりする。そのことを尋ねると、ここでは13ケ所の漁村があり、人々の居住が許されているとの答えが返って来た。伐採や火事の原因となるなどの問題があると言う。
 ここには、ウガンダ生態学研究所がある。研究員ブランコ・ブセネネ氏と話をした。彼は最近までリードバック(アンテロープの1種)の研究をしていて、今は食性を中心とするアンテローブの種間関係を扱っているということだった。1990年12月にこの研究所が中心となってウガンダで「アフリカの危機に瀕している野生生物に対する人間の影響」に関する国際シンポジウムが開催される予定である。
 クイーン・エリザベス国立公園には、チンパンジーも生息しているが、見ることはできなかった。マラマガンボ森林には観察路もなく、チンパンジーの個体数や生息状況は不明とのことだった。
 ウガンダの首都カンパラでは、さらにいろいろな人々と会った。ウガンダ国立公園の局長、ポール・セムウェジ氏によると、4つの国立公園とカンパラ事務所を合わせてスタッフ数は400名弱、年間の運営予算は約20万ドル、開発予算は年間約117万ドルとのことであった。国立公園の数が少ない分、やはりケニアやタンザニアに比べても小規模だ。日本のサバンナ・クラブから寄贈された4WD車があるが、ケニアのモンバサ港で税金が支払えないままになっているとのことだった。
 環境保護省では、特に森林保護、植林に関して欧州各国や国際機関から援助を受けているという説明を受けた。
 僕がタンザニアで国立公園援助の仕事をしていたという話をすると、皆、日本からの援助が期待できないかと熱心に現状を説明してくれる。特に研究分野では、日本の若い研究者の積極的参加が望まれている。困難は多いがチャレンジ精神に富む人々の協力を期待したい。

                                                                               1989年3月記


(14) ヌー
 ケニアの首都ナイロビ辺りで、日本人に会うとよく聞かれる質問「ケニアで動物を見るのに一番いい時期はいつですか?」困った質問ではあると思いつつ「見たい動物にもよりますが…」と前置きして「7〜8月じゃないでしょうか。」と答えることが多い。
 その理由@ヌーの大群が大挙してタンザニアから北上、ケニア側へ集合して来るのは5〜5月頃。したがって、7〜8月には、ナイロビ国立公園、キリマンジャロの近くのアンボセリ国立公園、そしてタンザニアのセレンゲティ国立公園に続くマサイ・マラ国立保護区には、くさるほど、あるいは佃煮ができるほどのヌーがいて壮観。一緒に移動するシマウマとトムソンガセル、そして彼らを狙う捕食者の数も多い。
A7〜8月は観光客も多く(だからホテルやロッジの予約はちょっと大変になるが)、
他のサファリカーもいっぱい走っていて(人気のある)動物を見つけるのが容易となる。
B観光客の多いハイシーズンだからホチルやサファリの料金も高くなり、より多くの外貨がケニアにもたらされることになる。

 セレンゲティとマサイ・マラが形成する生態系を移動するヌーの大群はテレビや写真で
何度も紹介されているので、見たことのある人も多いだろう。川を渡る際に溺れて死ぬ個体も多く川岸に流されてるいるいと横たわる死体に捕食者やハゲタカなどの腐肉食いどもが群がる。自然の厳しさそして偉大さを教えてくれる大スペクタクル。
 よーく見ると一頭一頭のヌーは間の抜けた顔をしている。前半身はウシ、後ろ半身はカモシカでたてがみと尻尾は馬だ。

昔日本語ではウシカモシカと呼ばれていた。英名のウィルデビ一ストは言いにくいので、最近ではホッテントット名のヌー("gnu"〕と呼ばれることが多い。ヌーという音は彼らの出す声からきている。南アフリカのオジロヌーに対して、東アフリカのヌーはオグロヌーと言う種で、さらに5亜種に分類が分かれている。
 大移動を『渡り』と呼ぶこともあるが、厳密に言ったら.季節的な移動と言うより、ヌーは1年中移動している場合もあり、不適切。大移動は特定のルートが決まっていると言うより、大まかな方向があるだけで、移動の開始時期も年によって異なる。移動開始はその年の降雨の状況に対応している。
 1〜2月が出産期で、出産の8割がほとんど2〜3週間の間に行われると言われる。回りで待機している捕食者達もこの間は満腹するのが簡単だ。ヌーを襲う動物としてはライオンが一番で、チーター、リカオン、ハイエナもヌーを狙う。ジャッカルも子供のヌーを襲うことがある。母親は他のレイヨウ類のように、出産を藪の中とかに隠れて行うわけではなく、群れの中で行う。ひどいときには、ハイエナとかの捕食者が近くで待ち受けているのに、出産が行われることもある。ヌーの新生児は、しかしながら、生まれて5分もすると立ち上がり、走ることが出来るようになる。そして母親について動くものだが、もし母親が近くにいない場合、新生児は最初についていった相手一人でも車でも、かなしいことに時には捕食者さえ一を母親と見なすことがある。
 19世紀の終わりに流行した牛疫で、東アフリカのヌーは危機的状況に陥ったが.その後回復。1960年には25万頭、1978年には150万頭となり、その後は安定あるいはいく分増加傾向にあると言われている。