ケニアの野生動物 鳴りやまぬ赤信号

                         日本自然保護協会『自然保護』(1985年)を基に一部改変(禁転載)

 大自然と野生動物を見る観光ツアー、言わゆるサファリをするために毎年多くの観光客がケニアを訪れている。観光はケニアにとってコーヒー生産に次ぐ重要産業であり、年間40万人前後が訪れている。
 ケニア政府は1963年の独立後も、それまでの国立公園法をほぼそのまま継承した。独立前には7カ所だった国立公園、保護区は現在39カ所(他に海中公園3カ所、史跡公園3カ所がある)になっており、その面積合計は全国土面積の7.5%を占める。
 故ケニヤッタ大統領により、ケニアは1977年に国内での狩猟を全面禁止し、1978年には野生動物製品の商業取引を禁止した。これによってケニア中の土産品店から象牙はもちろん、毛皮や剥製などがいっせいに姿を消したのである。
 観光客の多くは、自分たちの見る野生動物はどれも大切に保護されていると信し込んでおり、夜になってロッジやホテルの中で、今日はどんな動物を見たと自慢し合うのである。しかし実際には、アフリカの中でも自然保護の優等生と考えられているケニアでさえ、野生動物の現状は厳しいのである。筆者はケニア政府の許可を得て、1年間ケニアの自然保護・野生生物保護の調査に従事した。以下、その経験を踏まえてケニアの自然保護の実情を簡単に紹介したい。

1. 自主的な自然保護教育

 アフリカの自然保護制度の多くは欧米人がアフリカ人に押しつけたものだという考え方がある。事実アフリカ人にとって、昨日まで家畜に水を飲ませたり野生動物を狩っていた場所が、国立公園に指定されて立ち入り禁止になったりしていた。それまで地元の人々が歩いて行っていた場所が、国立公園になったばっかりに自動車でなければ入場できなくなってしまうのである。ケニア人の中には、ライオンなんて見たこともないという人間が想像以上に多い。首都ナイロビから自動車で20分のナイロビ国立公園に入りさえすれば、簡単に見られるというのにだ。
 1968年、ケニアの児童が自分たちの国の自然についてもっと良く知りたいと発言したことに始まり、「ケニア野生生物クラブ」が誕生した。各学校ごとにグループを作り、国立公園をバスで訪れたり映画の上映をやったりと幅広い自然保護教育活動を行っている。ケニア人の自主的な行動から作られた唯一の自然保護団体と言える。ケニア人が自分たちの意志に基づいて自然保護を推進するためにも、この活動の意義は大きい。この活動にはナイロビに本部をもつ「東アフリカ野生生物協会」や「アフリカ野生生物財団」も協力している。ケニアにおけるこの活動の成功から、同様の野生生物クラブがウガンダ・タンザニア・マラウィやザンビアにできている。
 しかし、依然として地方の人々には野生動物は見て楽しむものなんかではなく、自分たちの生活を脅かす存在だ。

2. 野生動物と人間の衝突

 議会の度に、各地方選出議員が野生動物による被害を訴えている。小学校にゾウの群れが侵入したり、通勤前の男性が家から出たとたんバッファローに襲われて死んだり、水を汲みに行った少女がワニに襲われたり、ヒヒの群れが畑で暴れたり、カバに襲われて圧死する人がいたり、数えあげたらきりがない。死亡者だけでも年間数十名に及ぶ。
 こういった被害に村し、1976年に動物被害補償法が制定された。しかし度重なる陳情にもかかわらず、調査が遅れたり資金が不足したりでなかなか補償金は支払われないのが現状だ。レンジャーが来ても許可なく野生動物を殺すことはできないので、銃を空に向けて発砲し驚かして追い払うといったその場限りの処置しかできない。筆者が調べた限りでは、ケニア国内ではゾウによる被害が最も多い。
 1982年、IUCN(国際自然保護連合)の報告ではアフリカ全土に120万弱のアフリカゾウが生息、うちケニアには6万5000頭となっている。これだけいれば十分と思われるかも知れないが、1969年にケニアにゾウは16万9000頭いたと推定されている。14年間に61.5%が失われたことになるのだ。
 ケニアは人口増加率年4%という恐るべきスピードで人口が増えている。西暦2000年には、現在の人口の倍になってしまうと予測されている。居住地や農耕地の確保のためた、ゾウをはじめ野生動物の生息地は急速に失われている。一例をあげると、デブラザモンキーがある。ケニア北西部に100〜150頭が残存しているといわれるが、生息地である森林の周りは急速に農地化されている。また、ケニア政府は1988年までに年間に訪れる観光客を100万人に増やそうというキャンペーンを行っている。国立公園、保護区内に野生動物が残されても、その周辺の土地が開発され、さらに公園内部では多勢の観光客が野生動物を追いかけ回すことになってしまう恐れがある。
 また、厳しい干ばつも10年に1回ほどの傾度で東アフリカを襲う。昨年は干ばつの影響で、北部ケニアでは多くのゾウが死んだ。そのせいかナイロビの土産品店でも象牙が急に出回り始めた。もちろん御禁制品である。日本人観光客を見かけると土産品店のケニア人が声をかける。「ブワナ(だんな)、いい象牙があるよ」。日本人が象牙を好きだということを、皆新聞で読んで知っているのだ。日本は1983〜84年に470トン以上の象牙を輸入している。470トンの象牙は約2万6000頭のゾウの死を意味している。ケニアからの象牙の輸出は禁止されているが、密猟、密輸は後を断たない。

3. サイ救済キャンペーン

 今ではケニアを訪れる観光客も、よほど運がよくないとサイにはお目にかかれない。もっとも、「野生のエルザ」の舞台になったメルー国立公園は特別だ。ここでは南アフリカから6頭のシロサイを移して来ている。彼らは完璧に人慣れしており、誰でもシロサイに触れたままで記念撮影(?)をすることができる。ケニアではシロサイはとうの昔に絶滅しており、現在野生状態で生息しているのは、わずかに残されたクロサイだけである。
 アフリカ全土に残存するクロサイはわずか8000〜9000頭である。ケニア政府が提出した報告書によれば、昨年までのセンサスで503個体が確認されており、国立公園、保護区内に317頭、私有地内に146頭と考えられている。その後の死亡個体の確認などもあり、現在では総数は400頭以下になってしまっていると言われる。そして密猟対策として、無線機を備えた武装レンジャーが見張りを各地で行っている。また、フラミンゴで有名なナクル湖国立公園内にサイのサンクチュアリを作る計画が進行中であり、電気柵の設置や、政府と自然保護団体が協力しての大々的なサイ救済キャンペーンが行われている。
 そしてこのサイの減少にも日本は無関係ではない。1980年にワシントン条約を批准するまで年平均800キロのサイ角を輸入しているのだ。現在もサイの密猟が発覚すると、目的地は日本に違いないなんて記事がケニアの新開にのるのである。

4. 非難される日本

 ナイロビにはUNEP(国連環境計画)の本部があり、その協力のもとに作られた「環境連絡センター」のオフィスがある。環境連絡センターは世界的なNGO(非政府組織)のネットワーク作りに貫献している。最近では、砂漠化の問題や農薬の害について力を入れている。そのオフィスには「日本の略奪捕鯨を禁止させよう」というステッカーが張ってある。このオフィスや、同じくナイロビにある東アフリカ野生生物協会やアフリカ野生生物財団を何回か訪れていると、必ず捕鯨や象牙取引の問題が出る。そして、新聞や自然保護団体の機関誌に象牙輸入大国としてしょっちゅう日本が出てくる。
 ケニアにおいて自然保護は政府の野生生物保護管理局、民間自然保護団体そして研究者の三者が協力して活動を進めている。研究者の数は多くはないが、例えばマーティン博士はサイ角や象牙の国際商取引に関する専門家であり、生態学者のウェスタン博士はサイ保護グループのリーダーである。彼らと話をしていて日本の象牙輸入の問題が出て釆ても、日本がケニアや他のアフリカ諸国の自然保護に役立っているという話は出ない。ナイロビにいると、日本の象牙輸入が第二の捕鯨問題として世界中の自然保護論者のやり玉にあがってきている、とヒシヒシと感じる。研究面でも、エチオピアのオモ国立公園、タンザニアのマハレ国立公園では九大、京大の研究者が調査協力を行っているが、ケニアでは今のところない。ザンビアでは青年海外協力隊の若者が、初めての試みとして国立公園での研究を行っているが、単独で行う調査には困難が多く思うに任せない。
 干ばつで人々が苦しんでいるときに、野生動物を守れとは何事だ、と怒る人がいるかも知れない。しかし、平和の達成、維持、十分な食糧の確保、そして観光資源の保存はアフリカ諸国にとってどれも同じように重大なのだ。将来的な展望を持とうとしたとき、特にケニアでは野生動物の保護抜きでは考えられない。飢餓対策のための食糧接助と同様、自然保護のためにも国際的な援助、協力が必要なのだ。日本は果たして今後この分野で汚名をそそぐことができるであろうか。


                   
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