チンパンジーの楽園 タンザニア・マハレ山塊国立公園
     ―日本の海外援助でできた国立公園―


 
                   日本自然保護協会 『自然保護』(1988年7月)を基に一部改変(禁転載)


 現在、日本は経済大国になったにもかかわらず、経済力に見合った国際的役割を果たしていないと言われる。自然保護の分野では、多量の熱帯木材や象牙の輸入など、むしろ非難されることが多い。今後、日本も海外―特に開発途上国における自然保護に関して、積極的に協力を行っていかねばなるまい。これから紹介するのは、政府間レベルですでに10年以上にわたって行われてきた日本で唯一の国際的自然保護援助の例である。
 舞台はアフリカ、タンザニアのマハレ山魂国立公園(Mahale Mountains National Park)である。

1. タンザニアの自然保護

 タンザニアは1961年の独立後に「アリューシャ宣言」を行つた。これ以降、タンザニアは自然保護を国是とし、そのための努力を重ねてきた。国土の四分の一以上が、国立公園・動物保護区などの自然保護目的に割り当てられており、その広さはアフリカの中でも有数である。その中には、世界的に有名なセレンゲティ国立公園(面積約1万5000平方キロ)や、5万平方キロの面積を誇るセルー動物保護区がある。日本の四国の面積が約1万8000平方キロであるから、その広大さが分る。また、1963年には、この種の養成機関としては世界初の野生動物保護管理カレッジを設立し、日本を含む海外からの学生も受け入れている。
 しかし、タンザニアはその経済状態の低迷から、自国の力だけでは自然保護の資金を賄いきれず、多くを欧米からの援助に頼っている。だが、それでも不備な点が多く、パトロールのための車や弾薬・無線機などが不足して、密猟対策も十分に行えていない。

2. 日本からの自然保護専門家として

 昨年5月、私は日本の国際協力事業団(JICA)から派遣された野生生物調査とその保護の専門家としてタンザニアのマハレに着任した。それまで私はケニアで国立公園制度・自然保護の現状の調査を行っていた。そして、ケニアの隣国タンザニテで日本の協力によって設立された新しい国立公園に興味をもっていたのである。
 マハレはタンザニア西部のタンガニーカ湖に面しているが、内陸部を険しい山に囲まれているため、陸路がない。湖畔の町キゴマからボートで10時間以上かかってようやくたどり着ける。そのため訪れる観光客も多くはない。また、アフリカの他の国立公園とことなり、ここでは車は使えない。歩くことによって、直に自然に触れるのだ。しかし、そうして出会える自然の素晴らしさは比類がない。
 私は湖畔に近い小屋に住んだ。時折、毒蛇が小屋内に侵入して大騒ぎになることもあったが、小屋のまわりにはチンパンジーをはじめ、サバンナモンキーやアカオザル、キイロヒヒといった霊長類、イボイノシシやブッシュピッグ、セグロジャッカル、夜になるとギャラゴやジャコウネコ、時にはヒョウも徘徊する。飛びまわる鳥や蝶の種類も多い。
 マハレ全体では1000頭近いチンパンジーがいると推定されているが、その中で、“Mグループ”と名付けられている群れは人に慣れており、容易に観察できる。Mグループは大きな群れだが、100頭近い構成員のそれぞれがすでに個体識別されている。一日に70頭ものチンパンジーが観察できることもあり、そんな時には、ここは本当に彼らの世界だと感じる。訪れる観光客(欧米人が主)も驚嘆して帰って行く。
 マハレでは現地スタッフと共に、ナタでやぶを切り開きながら国立公園境界域の踏査なども行った。やぶが開けた時に見られる景観の美しさは、湖を赤く染めて対岸のザイール側に沈む夕陽と共に、生涯忘れることのできないものとなった。

3. 日本人研究者と共に歩んだマハレの歴史

 このマハレ山魂国立公魔の誕生は、日本のチンパンジー研究者はじめ多くの人々の熱意に負っている。
 1961年に京都大学の伊谷純一郎氏らチンパンジー調査隊は、キゴマの町の南約60qのカボゴ岬に最初の調査基地を設けた。基地の撤収後、この地域にはタンガニーカ湖対岸のコンゴ(現在のザイール)での動乱から難民化した人々が次々に渡って釆た。そして、10年も経たないうちに大集落が形成され、周囲の山々の木はすっかり伐採されて、貴重な野生チンパンジー生息地の一つが失われてしまったのである。
 一方、そこからさらに約100q南のマハレでは、西田利貞氏が野生チンパンジーの餌付けに成功し、以後多くの研究者によるチンパンジー研究が行われてきた。
 豊かな動植物に注目した、日本人研究者は当初からマハレ地区の保護策を検討していた。その結果、1973年にマハレ地区を国立公園にする案をタンザニア政府に提出した。そして、タンザニア政府の要請に基づき、国際協力事業団によって、野生生物調査とその保護のための専門家派遣が1975年から開始された。また、1979年にはやはり事業団から、国立公園建設を目的とした調査団(伊谷純一郎団長ら7名)が派遣され、翌年にはマハレ国立公園マスタープランが提出された。基礎調査以外にも、ボートや船外機などの機材提供、国立公園予定地の測量、専門家による関係方面への働きかけなどが続けられた。このような日本の政府間レベルでの協力のもとに、マハレは1985年6月14日にタンザニア第11番日の国立公園として正式に指定されたのである。

4. 国立公園としてのマハレの今後

 国立公園の指定は、マハレ地域における一般の居住や狩猟行為を禁止し、その地域の自然保護を恒久的に宣言したことにはなる。しかし、それだけでは枠組みを決めただけであって、国立公園としての機能は果たし得ない。政府による監視体制を継続しなくてはならないし、観光客の受け入れ体制も整えねばならない。
 現在のところマハレには若干の研究用施設がある以外に、国立公園管理のためや観光客用の施設はない。今年度から、国立公園管理のためのスタッフが配属される予定であるが、タンザニア政府はやっとこれからマハレ山魂国立公園の管理の仕方を模索していこうという段階である。マハレ山魂国立公園の中身作りはやっと始まったばかりなのである。
 本年4月、日本の国際協力事業団はこれまでに基礎調査のための援助は十分行ってきたとして、私の任期終了をもってマハレへの単独専門家派遣を終了した。今後は、国立公園管理の指導ということで、事業団予算による環境庁の援助協力が期待されている。すでに、環境庁は調査団の派遣を決定している.困難な問題は多いが、是非ともタンザニアそして日本が世界に誇れるような国立公園作りを進めてもらいたいと思う。





参考:最初のマハレへの旅

1. ナイロビからタンザニアへ

「小林君、一緒にカソゲに行かない?」「いいすよ」そう気楽に答えたのが今回の旅の始まり。太田さんは北ケニアでトゥルカナ族の研究をしている人類学者で、今年度のアフリカ地域研究センターの駐在員をしている。僕が一昨年に駐在員をやっていた関係で、いろいろと厄介をおかけしてる。
「ガソリンは手に入りますかね?」と僕。「ドラム缶を買ってくるよ、300リットル積んで行けば何とかなるだろ」....とゆーわけで僕と太田さんの2人は9月30日火曜日、タンザニア一周4500kmのサファリに旅立った。ピックアップのトラックにドラム缶やテントをどっさり積んで。
 カソゲとゆーのはタンガニーカ湖畔の南、最近日本の協力で出来たばかりの国立公園─マハレ国立公園の中にある場所だ。
 国境の町ナマンガはアンボセリ国立公園への入り口の町でもある。ここで冷たいビールでケニアに別れを告げる。税関でクルマの持ち出しで多少もめたものの、案外すんなりとタンザニアに入国できた。クルマを飛ばしてアリューシャに到着。ここはゴロンゴロ・クレーターやセレンゲティ国立公園へ行く時の中継地点、今回で3回目。ニュー・アリューシャ・ホテルという一流ホテルに宿泊、豪華な食事とワイン、ウィスキーをたっぷりと胃袋に詰め込んでおく。
 翌日、山道にさしかかると舗装が途切れた。やむなくスピードを落とす。午後4時半、ようやくシンギダに着く。シンギダ湖の湖面がすでに傾きかけている陽光をキラキラ反射させて美しい。町の中だけ舗装があり、気温も涼しい。日本だったら絶好の保養地だろう。しかもガソリンがある。タンザニアで一番心配だったのは、ガソリンがない町が多いという噂だった。町で一番大きなホテルを訪ねたら、安ロッジしかなかった。シャワーもなく、汲みおきの水で顔を洗う。酒でも飲もうかと思ったら、この町ではBarは6時からしか開かないという。しかもイスラム教徒が多く、酒はいけないと言われる。案の定、客は少ない。タンザニア製焼酎”コニャッギ”を飲んで、ニャマ・ヤ・クチョマ(牛の焼き肉、食べる時は角切りにする)で夕食。
 翌日は500km近くを行く。国の主要幹線ではあるが、舗装なく、一日に数台トラックがすれ違うくらいだ。タンザニア政府が平価切り下げを行った後、高圧電線や舗装道路の工事が外国からの技術援助で行われている。工事中の舗装道路を脇目で見ながら(早く完成してほしいもんだ)、デコボコ道を行く。途中から整地されたばかりの道路へ進入して、クルマをとばす。ブルドーザーからおっさんが出てきて言う。「この道はここで終わりだ」突然山の中だけ工事を始めたとうことらしい。どこの町へも通じていないとは。やむなく、デコボコ道へ引き返す。この日は町らしい町にたどり着けずキャンプする。
 ブルンジとの国境近くの町へ着く。雑貨店になんと缶ビールがある。スコッチもある。この分だと最初の目的地キゴマに酒はいっぱいあるに違いない。そう楽観したのが運の尽き、あとで酒を買い占めておけばよかったと後悔することになる。
 とにかく午後5時過ぎ、タンガニーカ湖畔の町キゴマに到着。ビルの見れる町はアリューシャ以来だ。レイルウェイ・ホテルに投宿するも、部屋は1日しかないという。2日目からはホテルの脇の芝生にテントを張らせてもらうことになった。もちろん食事はホテルでとる。食事後「部屋番号は?」と聞かれたら、「キャンプ・サイト」と答えるわけだ。
 タンザニアの首都ダル・エス・サラームから汽車でビールを運んで来ているため、しょっちゅうビールが品切れになる。タバコもなくなる。そのかわり、おいしい魚が手に入る。夜になるとカタクチイワシを釣る船が何十艘と湖面に広がり、そのランプの明かりがとても美しい。
 キゴマから出る船は一隻修理中。マハレ国立公園の調査センターのボートに乗せてもらうことにする。陸路ではマハレに行けない。順調にいけば、10時間で着く。いよいよ野生のチンパンジーとの対面である。

2. カソゲ

 タンガニーカ湖畔の町キゴマの南北に野生チンパンジーの生息する国立公園がある。北にはゴンベ・ストリーム国立公園があり、チンパンジー研究で有名なジェーン・グドールらが調査を行っている。南には、京都大学・東京大学そして国際協力事業団の協力で1985年に指定されたばかりのマハレ国立公園がある。
 ここら辺はまた、ツェツェバエが多い。キゴマに着く前に奇妙な光景に出会った。突然、木を渡してあるゲートに出くわした。何だろうと思っていると、鉄板で作られた小屋から防毒マスクのようなものを付けたおっさんが出て来た。噴霧器でシュッシュッと殺虫剤らしきものをクルマのまわりにかける。そしてクルマのナンバーを控えてる。よく見ると、ツェツェバエ・コントロール・ステーションとある。しばらく森の中を行くとさすがにツェツェバエが多い。クルマを止めるとすぐに寄ってくる。やがてもう1ヶ所のゲートに出る。木の柵の所に小さな網が置いてある。まさか、と思っていたが、少年が出て来て網を振りながらクルマのまわりを歩く。まるで、おまじないだ。
 シュノーケルを付けてタンガニーカ湖に潜る。テラピアの仲間のカワスズメ科(シクリット)の魚が多い。最近、京都大学の研究者がこの魚の仲間にナマズが”托卵”することを発見した。カッコウやホトトギスなどの鳥類以外の脊椎動物で托卵が発見されたのは初めてである。それにしても、水も魚も美しい。タンガニーカ湖はアフリカで一番深く(約1400m)、世界で一番長い(南北720km)淡水湖である。
 キゴマより少し南のウジジの町に記念碑がある。1871年11月10日、マンゴの木の下ででヘンリー・M・スタンレーがデビッド・リヴィングストンに出会った記念である。昔はここからマハレ地域へ向かうボートが出ていた。
 いよいよマハレ国立公園へ向かう。「セレンゲティ」という名前のボートだ。朝8時出発の予定が、風が強いというので、キゴマを発ったのは午後3時半。雨が降ってきた。タンザニアはそろそろ雨期に入る。ビニールシートを広げて雨をしのぐ。夜8時半、再び風を避けて湖岸に停泊、今夜はこのまま夜明かしである。
 朝、皆でパンツ姿になって水の中に入り、砂地にはまった船を押す。みんな波をよけきれず、パンツまで濡らしてしまったらしい。僕はピョンピョンと跳んで難をのがれた。結局、早ければ10時間で目的地に着くはずが、21時間かかってしまった。着いたのはカソゲという部落。今は、国立公園スタッフとその家族が住んでいる。ここから1kmほど森の中に入ったところに調査ステーションがある。その夜、発熱して寝込んでしまう。マラリアかもしれないので薬をまとめて飲む。研究者の飼っているネコがベッドの上にやって来て、首の脇に寝たり毛布の中に入ってきたりする。
 いつの間にか寝入ってしまったらしい。何かの声で目が覚める。耳をすます。聞こえた。ウホッ、ウホッ、ウホッとゆう声が断続的に聞こえる。だんだん語尾が高く大きくなって、最後は叫び声のようになる。パンと・フートというチンパンジーのコミュニケーション音だ。起きて外に出る。少しだるいが、熱は下がったようだ。彼らの姿を見ることは出来るのだろうか。やがて、チンパンジーたちの声は森の奥へ消えていった。
 2日後、チンパンジー探索のために移動する。午前10時、意外にあっさりとチンパンジー達に遭遇する。マハレ山塊には700〜1000等のチンパンジーがいて、一部は餌付けされている。10頭ほどのグループが木の上にいた。コンゴ名でカソリオルという木の実を食べている。研究者達は個体識別していて、1頭ごとに名前を教えてくれるが、最初のうちはほとんど区別がつかない。
 チンパンジー以外にもアカオザル、レッドコロブスをよく見る。鳥と蝶も種類が多く、実に美しい。しかし毒蛇もいるので足下に注意がいる。ブッシュバックという森林性カモシカもよく姿を現す。ライオンが部落の近くに出たこともあったそうだ。この地域のチンパンジーは肉食を行い、レッドコロブスをよく捕らえるそうだ。また、チンパンジーがヒョウの親子を追っかけて、穴の中に手を突っ込み、ヒョウの子供を引きずり出して殺すという行為も観察されている。「わくわく動物ランド」のスタッフがやって来て、何とかチンパンジーが肉食するところを撮影したいと申し出たことがあった。1年くらい山にこもったらと言われて、諦めたそうだ。
 登山道沿いで、チンパンジーの”毛づくろい”を見た。ここのチンパンジー達は、北のゴンベ・ストリームの連中と違って、毛づくろいの際、相手の手を握って一緒に上に持ち上げたまま脇の下等の毛づくろいをする。文化の違いだろうか。山を見上げつつ、ガイドを雇って標高2462mの精霊の山ーンクゥングェ山に昇ることを決める。

3. ンクングウェ

 朝、7時。カソゲの部落からボートに乗って約20分。ミヤコに着く。ここから登山の開始である。僕たちのガイドはトングウェ族の3人。登る人間がほとんどいないので、やぶを切り開きながらの前進である。やたらと時間がかかる。正午を過ぎてもまだたいして登っていないという感じがする。最初のピーク、ムヘンサバンツにたどり着いたのは午後3時をまわってからだ。これから水場を見つけて、今夜のキャンプ地を決定しなくてはいけない。見ると北西方面から暗雲が広がってきている。雷鳴も聞こえる。急がなければ。ガイド達によれば、水場はムヘンサバンツ山とフモ山の間の谷に2ヶ所、少し離れてフモ山とンクゥングェ山の間に1ヶ所あるという。せっかく登ったけれど、僕たちは水場を求めて谷を降り出した。午後4時30分、とうとう雨が降り出した。最初の2ヶ所に水はなかった。フモ山のピークをまわり込んで、ンクゥングェ山との間にある水場へ行くしかない。僕達はすべる斜面を、草につかまりながら再び登り始めた。そしてまた降りる。午後7時になって日が暮れた。雨は降り続いているのに水場がない。懐中電灯の明かりで必死に水を探す。水がなければ飯を炊けない。情けない気持ちを抑えながら、やぶを切り払って斜面に傾いたテントを設営した。火をおこし、タマネギとダガーと呼ばれる小魚の干したものを炒めて、ウイスキーで胃に流し込んだ。明日の朝、水が見つからなければ早々に下山しなければならない。僕は疲れた体と暗い気持ちで、やぶでゴツゴツしているテントの中、斜めになったまま眠り込んだ。足を突っぱるとテントが破れる音がする。寝返りをうつと、手にとげがグサリと刺さった。しんどい。
 朝、意外にも水場はテントのすぐ近くにあった。腹いっぱい飯を食うと元気百倍、ンクゥングェに向かう。正午過ぎ、森に入る。1時間かかって森を抜け再びやぶの中、しかしだいぶ歩き易くなってきた。2時、とうとうンクゥングェの頂上に立つ。金属管の中に登頂者の名前が書かれた紙が入っている。読めないものもあるが、分かる中で一番古いのは1959年、オックスフォード大学第2次タンガニーカ調査隊とある。谷はチンパンジー研究で有名な西田利貞氏、長谷川夫妻らの名前もある。
 山を降りる。トングウェのおっさん達は帰ってからテーブルを飾るんだと言って、ひなげしのよーな花を摘んでは帽子にさしている。木の実をつんでは「おまえも食うか?」と試食させてくれる。湖岸に着く。迎えのボートがなかなか来ない。住民の一人がひょいとカヌーに乗って連絡に行く。長さ2m位の木をくり抜いただけのカヌーを、これまた手製のオールでひょいひょいとこいでゆく。いつひっくりかえるかも知れないという僕達の心配をよそに、カヌーはあっという間に波間の点になって、やがて見えなくなった。

               ☆         ☆         ☆

 夕暮れ。僕達はキゴマへ向かう汽船が通るのを待っている。湖畔の村。舟の修理をする男がいる。その脇には数人がラジオを聞いている。湖水でバケツを洗う女がいる。その近くでは波しぶきを上げて子供達が走りまわっている。汚い犬がいる。彼は人が通るたびにあとを追い、そして戻ってくる。子ヤギがけたたましい声で鳴き続けている。アヒルが無口に歩きまわっている。波は静かだ。ボートが着く。人々を降ろし人々を乗せ、再び出発した。皆、汽船を待つ人々だろうか。雲が美しい。黄金色、ピンク、紫、水色、そして白。空は光、湖も光、人々は影、山々も影。やがて日が暮れた。
 暗闇の中、人々の夕食の声がする。やがて遠くにクリスマス・ツリーのような輝きが見えた。汽船だ。僕達はボートで近づく。僕達だけではない。いつの間に現れたのか、何十艘というボートが群がる。降りようとする人、乗り込もうとする人、飛びかう荷物、手渡しされる密輸品(?)。僕達はリュックをしょい、ボートからボートへと渡って汽船に近づく。やっと手すりを握り、満身の力を込めて体を引き上げる。怒声がとびかう。何百人という人間が一度に動いてるようだ。秩序はない。よくケガ人が出ないものだ。やっと手足を広げるスペースを見つける。風が冷たいので酒をガバッと飲み、寝袋にもぐり込んだ。
 朝。ピンク色の光の中で僕達は目覚める。タンガニーカ湖の港町、キゴマに戻ってきたのだ。うれしいことにクルマは無事だ(!)。タイヤも4本とも付いている。こうして僕達はキゴマを後にした。